この記事は、serial experiments lain Advent Calender 2018(https://adventar.org/calendars/3510)の24日目です。




『serial experiments lain』20周年。賑やかだったメモリアルイヤーも終わりまであと一週間だ(注1)。『lain』は私のフェイバリット・アニメであり、だから『lain』について何か書きたい、いや書かなければ、と漠然たる義務感を今年一年感じてきた。好きだからこそきちんと準備した文章にしたい、だがそのための作業をする暇もなく、結局何もせず年の瀬を迎えてしまった。もう四の五の言っていられない。メモ書き程度の内容でも、何もしないよりマシだろう。



『lain』は一応、多くの人に「重要作」と認識されていると思う。だが、「電波」「怪作」という形容を同時に受けるように、決して誰もがすんなり楽しめるアニメではない。結論を先延ばしするストーリー、象徴的意味どころか文字通りの理解さえ難しい奇妙な描写。それでもめげずに私が『lain』を見切りラストに感動することができたのは、毎回冒頭に流れるOPが実にカッコよく魅力的だったからだ。中でも私がやられたのは、(オンエア版のOPでは一部カットされている)最後の歩道橋の部分である。



歩道橋を上がる玲音。最上部を歩いている彼女に風が吹き、帽子が飛ばされる。おそらくその風の発生源である烏が玲音のすぐ近くを過り、カメラの手前へ飛んでいく。モノクロになる画面、ストップモーション。


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その後、色調は戻り、玲音の表情にアップ。彼女の顔にかかる烏の影は微動だにしない。玲音は歩道橋を歩いていく。彼女の背後で飛ばされた帽子が空中に静止している。


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この一連の映像には、『lain』本編のエッセンスが込められている。といっても、歩道橋が最終回の重要なシーンで現れるから、という話ではない。決定的な別離を経たありすと玲音の、再会と言えるかどうかもわからない曖昧な邂逅は、確かに同じ歩道橋で起こっていた。だが、仮に『lain』を初めて見る人でも、OPの歩道橋で何かしらの切なさを感じるだろうし、『lain』を見進めていくにつれ、その切なさを『lain』らしいと感じるのではないか。少なくとも私はそうだった。つまり単に似た背景が本編のシーンを思い出させて心を揺さぶる、だけではない。


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ではどういう意味でこのシーンが『lain』的であると言えるのか。それを説明するには、展開されている表現的な実験を解きほぐさねばならない。まず歩道橋の場面で驚くべきことは、玲音が視聴者と同じ、静止した世界を体験しているように見える点だ。


映える象徴的な画面を強調するために、画面を止める。ごく普通の映像テクニックであるストップモーションは、視聴者や監督が住む、画面のこちら側で生起する事態である。例えば『ドラゴン怒りの鉄拳』は、銃を構える敵との絶望的な戦いに挑むブルース・リーが飛び上がったストップモーションで終わるが、ここでブルース・リーが怒りのあまり超能力に覚醒し空中で静止したと思うものは、映画の基本的な見方を理解していない。画面の向こう側の世界では対応する静止はなく、ごく普通にブルース・リーが飛び上がり落ちる。止まったのはあくまでブルース・リーが映った映画の画面である。作品内世界から一瞬だけを切り出し、作品外世界の画面でそれを描き画面を止める、そういう事態がストップモーションであると整理できる。


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ところが、『lain』のOPではそうなっていない。ストップモーションの後映るのは、空中に静止した烏と帽子、平然と歩道橋を歩く玲音(注2)。動くことのできる玲音には、烏も止まって見えているはずだ。さっき視聴者がストップモーションで見ていたように。つまり、玲音は、視聴者にとってのみ存在するはずのストップモーションを体験している。画面の向こう側にいるはずの玲音は、画面のこちら側での演出的静止を認識している。繰り返すが、作品内の時間ではなにも止まっていない。何かが止まっているとすれば、現実の時間に対してである。従って、作品内の時間ではなく、現実の時間の中で、玲音は生きている。


では、歩道橋のシーンで玲音はアニメを飛び出し視聴者の世界にやってきたのか。例えば最終話で玲音が視聴者に向け話しかける、いわゆる「第四の壁」破りと同じ種類の事態とみて良いのだろうか。そう言い切ってしまうと、このシーンの重要な情感が切り落とされてしまう。端的に言えば、玲音はもっと寂しく見える。歩道橋のシーンのもう一つの仕掛けに注意するとその理由がわかってくる。



確かに「玲音が止まった世界で動いていること」も奇妙だ。だがそもそもこの「止まった世界」自体が変ではないか。くどいようだが、ストップモーションは映像作品の画面が止まることである。本来ストップモーションの画面は動いている作品内世界の一瞬を切り取ったものである。止まっているのは現実の二次元的な画面であり、動いているのは作品内の三次元的な世界である。ところが歩道橋のシーンでは、ストップモーションの前に風で飛ばされた帽子が飛ばされた途中の位置で静止し、多数のアングルから映されている。従って、ストップモーション以前から継承された作品内の三次元的空間で帽子は静止している。よって、ストップモーションが起こっている画面外の現実と、演出など無関係に前のシーンから人物や物体が生息していた作品内世界という、全く異なる二つの世界のうち、前者の時間と後者の空間を掛け合わせた時空が開けていることになる。この、どこにも存在しないはずの奇怪なキメラ世界自体が、この場面でもうひとつ驚くべき点である。



第四の壁を破って玲音がこちらに話しかけてくるとき、我々は玲音と、玲音は我々と繋がっている、と感じられる。ブラウン管の中にいる玲音が、ガラスを隔てて、こちらを見ている。アニメを見ている私に、今、玲音が話しかけている。会話によるコミュニケーションの前提として、時空を共有するという根源的な繋がりがそこにある。だがOPで歩道橋を歩く玲音は違う。我々の手に届かない作品内の歩道橋を歩いている。だから彼女には止まった烏は見えても我々は見えない。我々と玲音は異なる空間に隔てられている。そして彼女は自分が元いたはずの作品内世界とも交流できない。飛ばされた帽子を玲音は拾わずに歩き去るが、きっとそれは帽子が飛ばされたとか拾うとかいったことが成立しない、演出の論理によって絶対に対象が動かないストップモーションに自分がたった今入り込んだと知っているからだ。周囲と玲音は異なる時間に隔てられている。つまりここで描かれるのは、複数のリアリティを行き来することができる玲音が、結果どことも断絶した狭間でひとり迷子になる様子だ。



『lain』はそもそもそういう物語だった。ワイヤードと現実を行き来することができるがゆえに、ワイヤードにも現実にも居場所を見つけきれない。どこにでもいられるがゆえにどこにもいられない。第四の壁を超えて我々と時空を共有できても、結局砂嵐の中にすぐ飲み込まれてしまう。歩道橋の上でちょっと憂鬱そうにとぼとぼと歩く玲音から目が離せないのは、我々がそこに、作品全体で彼女が背負うことになる孤独を見て取らざるをえないからなのである。
 


注1:「2018年」をメモリアルイヤーと考えるのではなく、アニメ放送開始(1998年7月)を基準にすれば、来年の途中まで続くことになるが。
注2:静と動の対比を描くにあたり、スクランブル交差点のような動きが溢れる場所を選ばなかったのが正しい。「静止」できるのは、「動いているはず」のものである。ずっと動いていない富士山は「止まる」ことができない。だから動きの溢れる場所でこの仕掛けを展開すれば、画面に「静止」が溢れることになる。だが閑散とした歩道橋の上で、歩く玲音と比較されるのは小さな烏と帽子だけだ。情報量を削ぐクールさ。「静止」と「動作」を限られた対象に凝縮して担わせることで、画面上で対比の緊張感が高まる。