新野安と夜話のブログ

新野安がマンガやエロマンガについて文章を書いたりするブログ。Webラジオ「エロマンガ夜話」「OVA夜話」の過去ログ紹介も。

タグ:文学フリマ

※これは2019/11/24に行われたイベント「第二十九回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、ひかけんが書いた記事のみを転載したものです。図に入った修正も文フリペーパー版のままになっております。

立体感のある華奢な身体に、陰影と体液が溶け合う独特の描写。爽やかな背景に明るい色彩で描かれる、怯えたような少女のイラスト。妙に能天気なタッチで、ハードな陵辱が展開される漫画。玉乃井ぺろめくりという個性的なペンネームの作家は、生み出す作品もまた個性的だ。本稿では、彼女の個性的な仕事の魅力について個人の感想ベースで語っていきたいと思う。

先日「エロ漫画家であることが家族にバレた」顛末のツイートがTwitterでバズり10万超えのリツイートをされた玉乃井は、二〇一六年冬のコミケ91から同人活動を開始し、商業ベースでは茜新社の「コミックLO」に二度掲載されたほか、コアマガジンの電子コミック誌「LQ」では二〇一七年刊の16号以降すべての表紙イラストを担当している。どちらもロリジャンルに特化した雑誌であり、玉乃井の作品も同ジャンルに集中している。


ひかけん図1

図1:LQ 17号(コアマガジン)表紙

まずイラストについて見てみると、LQで玉乃井が担当した表紙はいずれも、全裸か全裸に近い格好の幼女が描かれている(図1)。それ自体は成人向け雑誌の表紙として珍しいことではないが、玉乃井が担当になる16号以前の同誌の表紙では、イラストに描かれるのはほとんどが無邪気な着衣の少女に統一されており、玉乃井の起用で大きく変化があったことがわかる。

かわいさ推しから扇情寄りに誌面の方向性が変わったのか? 作家陣の顔ぶれを見ても恐らくそうではない。そこには玉乃井の描く少女の、ある種の扇情性のなさが関わっているのではないかと思う。

誤解なきよう、玉乃井の描くロリ体型はエロい。肩ががっちりせず華奢で、胸の膨らみには途上感があり、肋骨を殊更に強調せずとも陰影で肉の薄さを強調する。責められて舌を出しているときの弛緩した表情も印象的だ。しかしLQの表紙で裸を見せる少女たちは(巻によって差はあるが)少し爽やかさを伴い、「コミックLO」の表紙絵を担当するたかみちとはまた違う意味で、少女のかわいさを思わせる。

なぜか? 先ほども述べたように玉乃井は肋骨を強調しない。ロリ体型描写には「ぷに」と「ガリ」という傾向があり、ガリ描写においては肋骨等のラインを強調して、丸みを帯びた二次性徴後の女性の身体とは違うロリ特有の未完成な身体を描き出すことがままある。だが玉乃井の描く少女の輪郭はより複雑で、補助的に実線を使いつつもトーンによる陰影で肉の薄さを描き出していて、小振りな胸部・乳首もその陰影の先にあり、自然な造形のもとに描かれている。そう、玉乃井は殊更にパーツを強調するのではなく、全体のバランスをとって女児の身体を描く。表紙はもちろんエロいのだが、まずその立体感ある体つきにエロさ以上の情報量を感じるために、なんなら不健全ではないのではないか……?などと脳がエラーを起こす。いやそれは言い過ぎだけれど、全裸イラストが表紙として映えているのはそんな均整の取れた幼児体型描写のなせる技なのである。


そんなクセになるイラストを描く玉乃井なのだが、漫画もかなり個性的なものになっている。商業と同人あわせて4短編が発表されているが、いずれもヒロインは身体の未発達な女子生徒であり、髪は肩まで行くかくらいの利発そうなキャラ造形になっている。そして無邪気な雰囲気と対照的に、輪姦を伴うハードな性交描写が含まれる。

まず特筆すべきはその不条理ともいえる世界観だ。短編「占い好きの女子は「イイことだけ信じる」って言いがち。」(コミックLO 二〇一九年二月号)は、駄菓子屋さんの占いで「とにかく みんなに 犯されて 困るね。」という紙を引いた少女・泉が、あらゆる周囲の男性から犯され続けて3年目の日常を描いた作品である。一種の「常識変化」ものであり、授業中の教室でも淡々とレイプされ続ける泉を誰も当然のこととして気にかけず、母親からは「セックスしてたら遅刻するよ」女友達からは「給食だから服着なよ」など会話が成立している。泉は快感を感じつつもそれに溺れるでもなく、「今日人数多いな」などとぼやきながら諦めて受け入れ、妊娠を予期させながらも変わらない日常が続く、という筋書きになっている。

ひかけん図2

図2: コミックLO 2019年2月号 p.302(図1,2ともに掲載にあたり修正を追加した)

かなりハードなお話なのだが、ヒロインの泉のもともとの幼さが残っていて、作中でデフォルメした絵が挟まれることで妙な能天気さも出ている。特にラストでは、教師たちに散々犯された直後の泉ちゃんがうつ伏せになってリラックスしてお菓子を食べていたり(図2)と、そのギャップによってかえって短編全体の不条理さが浮き立っている。

ここで注目すべきはその「悪意のなさ」である。輪姦する男性たちの側に泉ちゃんへの恋心や私怨の類は一切なく、ただ義務のように毎日泉ちゃんを犯し続ける。列を作る男性たちの顔が描き込まれることはあっても行為中の男性はコマに入って表情を出すことはないし、誰が誰かも同定できないことがほとんどで、これは他の短編にもほぼ共通する。そこには犯人も復讐も悪意もなく、ただ無機質に酷い目に合う泉ちゃんの様子は、まるで世界に犯されているかのような感覚を与える。

そう、これは理不尽な目に合う少女に心を痛めたり、性のタブーを犯しながら自己を解放する少女を見つめたりするタイプのロリ漫画とはまるで違う。ただ日常に1点の歪みが生じて、誰もそれを気にせず利用せず、機能として犯される少女が発生する様子を描いているのだ。この短編は一番極端だが、同人誌「くれなちゃんのごほうびせっくす運動会」(二〇一八)も突然にレイプが始まりその場にいた男性陣が明確な悪意なくそれに加わって行く筋書きだし、「©生で学ぶ、正しいセックス講座」(二〇一九)は少女が特に理由なく性教育の教材にされるし、いずれも「理不尽に始まる悪意なきレイプ」が描かれている。商業デビュー作「放課後にはこういうコトもまれによくある」(コミックLO 二〇一七年一〇月号)は毛色が違ってレイプ描写はなく、児童たちの無邪気なセックスの様子が描かれるエモ寄りの作品だが、やはり打算や感情に起因しない性行為が描かれるところは共通している。


つらつらと書き連ねてきたが、立体感のある独特の少女作画と、物語のない陵辱シーンを含んだ筋書きで、ある種純粋なロリものを描く鬼才がぺろめくり先生である。これからもユニークな短編を描き綴ってくれますように。

※これは2019/11/24に行われたイベント「第二十九回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、新野安が書いた記事のみを転載したものです。

【『ガラスの仮面』論のためのノート】シリーズ、前回はこちらです。

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図:『ガラスの仮面』第5巻より、一人で舞台に立つ決意をするマヤ

今更ながら『アクタージュ』(単行本8巻まで)を読んだ。当たり前ながら面白い。特に『ガラスの仮面』ファンは読みながらニヤニヤしてしまうだろう。裏は取っていないが、作り手達が『ガラかめ』を研究したことはまず間違いない。今回は『アクタージュ』との比較を通じて、『ガラスの仮面』の特異性を語りたい。


『アクタージュ』の中には『ガラスの仮面』的な要素がたくさん存在する。女優ものであること、主人公の恵まれない家庭環境、主人公が演じることになっている「幻の作品」、etc.……。確かにその分、『ガラスの仮面』の面白さは『アクタージュ』に受け継がれている。

しかし『アクタージュ』は『ガラスの仮面』のコピーに堕していない。『アクタージュ』独自の魅力は、「良い演技」を描く上で、キャラクター同士のコミュニケーションにスポットライトを当てたことにある。

『アクタージュ』ではしばしば、演技中に回想シーンが挿入される。千世子が緻密に構築した自己イメージを纏う「天使」になったのは何故か。『銀河鉄道の夜』の舞台で阿良也がジョバンニの喜びと悲しみを体現できるのは何故か。キャラクターがなぜそう演技するかは、彼らの生い立ちを通じて説明される。だから演技は、演者の人生と一体のものだ。

同時に『アクタージュ』において、映画や演劇は集団芸術である。優れた役者は他人の演技を見ながら自分の演技を磨き、あるいは自分の演技で他人の演技を引き出す。千世子の客観性、阿良也の表現力を吸収し、主人公・景の演技は変化する。景の成長に刺激され、千世子は仮面の下に隠していた生の感情を露出し、七生も恩師・巌が死んだショックを振り切る。

そして、演技と人生が同じであるなら、互いの演技を理解し共に変化する過程は、互いの人生を理解し共に生きていく過程に他ならない。最初友達の居ない変人だった景は、女優の仕事を通じ、千世子やアキラと親友になっていく。

つまり『アクタージュ』では、良い映画・良い舞台を作り上げることは、チームとして成長することであり、同時にメンバーの人間関係を深めることでもあるのだ。

そのことに気づいた時、私は三つのことを思った。一つ目は、演劇という題材をうまく使って、今っぽい「関係性萌え」を詰めこんだマンガだなということ。実際、景と千世子はかなり百合百合しい。二つ目は、「いい話」だな、ということ。民主主義的というか、平等主義的というか、みんなで高め合って仲良くなろうというわけで、非常に道徳的な印象を持った。

そして三つ目は『ガラスの仮面』のことである。確かに『アクタージュ』はいい話だが、あくまで個人的な好みで言えば、私は『ガラかめ』とマヤの狂気の方を買う、と思ったのだ。


『ガラスの仮面』前半でこんなエピソードがある。ライバル劇団オンディーヌの差し金で、マヤが所属し月影千草が主催する劇団つきかげの中傷記事が週刊誌に載る。大打撃を受けた劇団つきかげはスポンサーから、演劇コンクールで入賞して汚名返上できなければ支援打ち切りという条件を突きつけられる。サスペンス劇「ジーナと5つの青いつぼ」を武器に、全国大会に臨むつきかげ。しかしマヤだけが特別扱いされることに不満を持った団員がオンディーヌに寝返り、マヤ以外の劇団員が上演時間に間に合わないよう工作する。誰もが諦める中、マヤは台本を無視し、たった一人の舞台を始める。マヤはアドリブで劇を成り立たせ、観客の圧倒的な支持を受ける。

ジーナがつぼを巡って次々危機に巻き込まれる劇中のサスペンスと、マヤがアドリブが破綻しかねない展開に何度も遭遇する現実のサスペンスを重ね、息つく暇なく読み切らせる。だがあえて深呼吸して考え直してほしい。これで本当によかったのだろうか?

月影が「紅天女」候補のマヤだけを特別視したのは週刊誌でも指摘され、彼女自身も認めるところだ。月影の暴走がこの事態を招いたのであれば、彼女も反省してしかるべきなのではないか。経験値の乏しさゆえ、周りを立てる余裕がなかったマヤにも問題というか、成長の余地はあったかもしれない。そう考えると裏切り者達にも同情したくなる。彼らが反省し演技に打ち込む展開を用意してやってもよかろう。何より、足止めをくらった善良な団員の立場がない。一丸となって危機を切り抜けるため頑張ってきたのだから、みんなで一緒に優勝させてあげたいではないか。

多分、『アクタージュ』ならそうなった。しかし『ガラスの仮面』では、おいしいところをマヤが全部持って行って終わる。いつでもマヤだけ中心になる構造こそ解決すべき問題だったはずなのに、そこは全く手付かずである。

いや、このエピソードでは、そしてきっと『ガラスの仮面』全体においても、そんなものは問題ではないのだ。マヤと周りの人々がどんな課題を抱え、どんな成長をするのかなど、すべて些事に過ぎない。重要なのはただマヤの圧倒的な才能と情熱なのである。何のプランも示さず舞台に出ていくマヤを前に、月影やスタッフは狼狽える。二人目以降が登場しない異様な演出に、客は青い顔で慄く。それでも舞台のマヤは平気な顔で、壊れ切った舞台を力技で繋いでいく。狂気の天才が起こす奇跡を前に、凡人であるスタッフ・観客・読者にできるのは、黙ってひれ伏すことだけだ。「いい話」を投げ捨てた、ほとんど怪獣映画のようなこのエリート主義こそ、『ガラスの仮面』が読むものを圧倒する理由なのではないか。


ただし、怪獣たる資格をもつのはマヤだけではない。というわけで、(気が変わらなかったら)次回はマヤのライバル・亜弓の話をすることにしよう。

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