※これは2019/11/24に行われたイベント「第二十九回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、新野安が書いた記事のみを転載したものです。

【『ガラスの仮面』論のためのノート】シリーズ、前回はこちらです。

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図:『ガラスの仮面』第5巻より、一人で舞台に立つ決意をするマヤ

今更ながら『アクタージュ』(単行本8巻まで)を読んだ。当たり前ながら面白い。特に『ガラスの仮面』ファンは読みながらニヤニヤしてしまうだろう。裏は取っていないが、作り手達が『ガラかめ』を研究したことはまず間違いない。今回は『アクタージュ』との比較を通じて、『ガラスの仮面』の特異性を語りたい。


『アクタージュ』の中には『ガラスの仮面』的な要素がたくさん存在する。女優ものであること、主人公の恵まれない家庭環境、主人公が演じることになっている「幻の作品」、etc.……。確かにその分、『ガラスの仮面』の面白さは『アクタージュ』に受け継がれている。

しかし『アクタージュ』は『ガラスの仮面』のコピーに堕していない。『アクタージュ』独自の魅力は、「良い演技」を描く上で、キャラクター同士のコミュニケーションにスポットライトを当てたことにある。

『アクタージュ』ではしばしば、演技中に回想シーンが挿入される。千世子が緻密に構築した自己イメージを纏う「天使」になったのは何故か。『銀河鉄道の夜』の舞台で阿良也がジョバンニの喜びと悲しみを体現できるのは何故か。キャラクターがなぜそう演技するかは、彼らの生い立ちを通じて説明される。だから演技は、演者の人生と一体のものだ。

同時に『アクタージュ』において、映画や演劇は集団芸術である。優れた役者は他人の演技を見ながら自分の演技を磨き、あるいは自分の演技で他人の演技を引き出す。千世子の客観性、阿良也の表現力を吸収し、主人公・景の演技は変化する。景の成長に刺激され、千世子は仮面の下に隠していた生の感情を露出し、七生も恩師・巌が死んだショックを振り切る。

そして、演技と人生が同じであるなら、互いの演技を理解し共に変化する過程は、互いの人生を理解し共に生きていく過程に他ならない。最初友達の居ない変人だった景は、女優の仕事を通じ、千世子やアキラと親友になっていく。

つまり『アクタージュ』では、良い映画・良い舞台を作り上げることは、チームとして成長することであり、同時にメンバーの人間関係を深めることでもあるのだ。

そのことに気づいた時、私は三つのことを思った。一つ目は、演劇という題材をうまく使って、今っぽい「関係性萌え」を詰めこんだマンガだなということ。実際、景と千世子はかなり百合百合しい。二つ目は、「いい話」だな、ということ。民主主義的というか、平等主義的というか、みんなで高め合って仲良くなろうというわけで、非常に道徳的な印象を持った。

そして三つ目は『ガラスの仮面』のことである。確かに『アクタージュ』はいい話だが、あくまで個人的な好みで言えば、私は『ガラかめ』とマヤの狂気の方を買う、と思ったのだ。


『ガラスの仮面』前半でこんなエピソードがある。ライバル劇団オンディーヌの差し金で、マヤが所属し月影千草が主催する劇団つきかげの中傷記事が週刊誌に載る。大打撃を受けた劇団つきかげはスポンサーから、演劇コンクールで入賞して汚名返上できなければ支援打ち切りという条件を突きつけられる。サスペンス劇「ジーナと5つの青いつぼ」を武器に、全国大会に臨むつきかげ。しかしマヤだけが特別扱いされることに不満を持った団員がオンディーヌに寝返り、マヤ以外の劇団員が上演時間に間に合わないよう工作する。誰もが諦める中、マヤは台本を無視し、たった一人の舞台を始める。マヤはアドリブで劇を成り立たせ、観客の圧倒的な支持を受ける。

ジーナがつぼを巡って次々危機に巻き込まれる劇中のサスペンスと、マヤがアドリブが破綻しかねない展開に何度も遭遇する現実のサスペンスを重ね、息つく暇なく読み切らせる。だがあえて深呼吸して考え直してほしい。これで本当によかったのだろうか?

月影が「紅天女」候補のマヤだけを特別視したのは週刊誌でも指摘され、彼女自身も認めるところだ。月影の暴走がこの事態を招いたのであれば、彼女も反省してしかるべきなのではないか。経験値の乏しさゆえ、周りを立てる余裕がなかったマヤにも問題というか、成長の余地はあったかもしれない。そう考えると裏切り者達にも同情したくなる。彼らが反省し演技に打ち込む展開を用意してやってもよかろう。何より、足止めをくらった善良な団員の立場がない。一丸となって危機を切り抜けるため頑張ってきたのだから、みんなで一緒に優勝させてあげたいではないか。

多分、『アクタージュ』ならそうなった。しかし『ガラスの仮面』では、おいしいところをマヤが全部持って行って終わる。いつでもマヤだけ中心になる構造こそ解決すべき問題だったはずなのに、そこは全く手付かずである。

いや、このエピソードでは、そしてきっと『ガラスの仮面』全体においても、そんなものは問題ではないのだ。マヤと周りの人々がどんな課題を抱え、どんな成長をするのかなど、すべて些事に過ぎない。重要なのはただマヤの圧倒的な才能と情熱なのである。何のプランも示さず舞台に出ていくマヤを前に、月影やスタッフは狼狽える。二人目以降が登場しない異様な演出に、客は青い顔で慄く。それでも舞台のマヤは平気な顔で、壊れ切った舞台を力技で繋いでいく。狂気の天才が起こす奇跡を前に、凡人であるスタッフ・観客・読者にできるのは、黙ってひれ伏すことだけだ。「いい話」を投げ捨てた、ほとんど怪獣映画のようなこのエリート主義こそ、『ガラスの仮面』が読むものを圧倒する理由なのではないか。


ただし、怪獣たる資格をもつのはマヤだけではない。というわけで、(気が変わらなかったら)次回はマヤのライバル・亜弓の話をすることにしよう。