前回の記事では、ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ!』が感動的である理由を、『キャントば』のドラマ性に焦点を当て、『ロッキー』という補助線を引いて説明した。
だが『キャントば』の魅力をそれだけで解き明かせるとは思わない。
今回は視点を変えて、『キャントば』の「メタエロ漫画」としての特徴に注目してみよう。



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・「エロ漫画論」としての『キャントば』



『キャントば』は、「エロ漫画について語る漫画」=「メタエロ漫画」だ。それは単に、主要登場人物のほとんどがエロ漫画家であるということではない。
『キャントば』においては、「エロ漫画とは何か?」あるいは「エロとは何か?」という問いが、登場人物によって問われ答えられていく。その結果として、エロ漫画やエロへの賛歌が語られる。
『キャントば』は要するに「エロ漫画論」として読めるエロ漫画なのである。


だが、「エロ漫画論」として読めるということは、「エロ漫画論」であることとイコールではない。
「エロ漫画論」にとって重要なのは、結論とそれを支える議論・データといったものだろう。
だが、前回も一度述べたように、『キャントば』はエロ漫画であり、作品である。したがってその魅力を見定めようというとき、「メタエロ漫画」としての側面に注目するとしても、重要なのは語られるメッセージの内容そのものではない。メッセージをどう漫画作品としてコーディングしたかという、メッセージの提示の仕方であろう。
そしてその点において、『キャントば』は、非常に巧妙な戦略※と、小さくないミスの双方を顕わにしているように私には思われる。
以下、順に説明していこう。



・時代性と普遍性の両立



宝田自身が述べているように『キャントば』は実は時代性を強烈に刻印された作品である。
「個人的には40代くらいのオッサンのノスタルジーを込めたつもりだったのですが同年代の方だけでなく以外(原文ママ)とお若い皆さんにも共感を頂いているようでおどろくと同時にエロとか恋愛とか若い頃に感じる漠然とした疎外感みたいなものは年代を問わず不変のテーマなのかなと思ったりもします」(新装版カバー下コメントより)


私が「時代性」と呼び、そしておそらく宝田が「ノスタルジー」と呼んだのは要するに、主人公・貧太のトラウマの内実である。
貧太の学生時代は(彼自身の言葉を使えば)「オタク迫害」の全盛期であり、彼はオタクであることを理由に壮絶なイジメにあっていた。
自らの趣味趣向を素直に認められなくなってしまった彼を救ったのは、道端で拾ったエロマンガの、背景に書き込まれた落書きである。そこには当時放送されていたアニメ『アイドル剣士 夢見るムミル』についての、作者の性的な妄想が堂々と綴られていたのだ。
それを見て彼は、自らの性欲を恥じずに堂々と謳いあげるために、エロマンガ家への道を志す。つまり彼にとって(あるいはこの作品にとって)エロマンガは、自分の性を恥じること無く自身の一部として受け入れる、あるいはそんな自分自身を世界に向け堂々と主張するためのもの、つまりアイデンティティの根拠なのだ(前回の記事も参照のこと)。もう一度貧太のセリフを引用しておこう。
「こんな時代にっ…きっと/たくさんの人が見ているハズのマンガの中にっアニメの中の少女が「好きだ」って…(中略)僕も叫んでみたいっ/この作者みたいに…/僕だって美少女が好きだぞって…/アニメやマンガの女の子が好きで…僕はオタクだぞ…って」


貧太自身が述べているように、『キャントば』が連載された2006-2007年当時、そしてもちろん現在も、オタクであることが即イジメや差別の対象となるほどオタク迫害は苛烈ではない。
したがって貧太が学生時代に経験した苦しみは、もっと前の時代――特に貧太の30歳という年齢を考えるならば、1989年の宮崎勤による連続少女誘拐殺人事件、及びそれにともなうオタクバッシングの記憶が刻印されているものと考えるべきであろう。
また彼のトラウマを癒した「背景の落書き」についても、やはり現代のエロマンガにはめったに見られない。
こうした点で『キャントば』は、ある特定の時代の実感を記録した作品であると言える。



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↑おそらく宮崎勤事件が投影されているのではないか



もしも『キャントば』のエロ漫画論が、あくまで貧太のトラウマと癒しという形でのみ語られるのであれば、それは時代性に基づく切実さこそあれど、あくまで特定の時代に生きたオタクの極めて世代依存な心情吐露として(宝田自身が予想したように)理解されてしまったかもしれない。
だが『キャントば』は初めて単行本化された当時から多くの読者に支持され、また2016年に再販されさらに共感の輪を広げてさえいる。
なぜそのようなことが可能だったのか?
本作のエロ漫画論が、貧太のみならずキャノン先生にも仮託されているからである。


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↑二人のトラウマが重ねられる


キャノン先生は、幼いころに両親のセックスを目撃したことをきっかけに、性に強烈な興味を持つに至った。そのため、普通の少女とは異なる言動を表すようになる(たとえば小学校で「大きくなったらSEXをしたいです!」と発表するなど)。
結果として彼女は親や先生に怒られたり、同級生からイジメを受ける。
終盤で貧太に向け放たれる「Hだと/怒られたり/笑われたり…/イジメられたりするのは…っ/何故ですか?!」という彼女の慟哭には、彼女のつらい過去が込められている。



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↑文字通り「目の色を変えた」キャノン先生。キャラクターの表情をダイナミックに、ときにほとんど原型をとどめないほど変化させるのは宝田の十八番だ



彼女の苦しみを癒し、「作品」としてのエロマンガに昇華させたのは他ならぬ貧太だった。
本作におけるキャノン先生の過去描写はほとんどセリフがなく、キャノン先生が貧太の漫画に出会う場面でも、食い入るように貧太の漫画を読み、頬を赤らめるキャノン先生の顔だけが描写されている。
ここで暗示されているのは、様々なエロ漫画、特に貧太の作品が、キャノン先生のエロへの渇望を肯定し、漫画という形で作品化することを励ました――そして大エロマンガ作家「巨砲キャノン」が誕生した、ということ(そしてもちろん、そのことこそがキャノン先生の貧太への恋心のきっかけであったということ)である。



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↑おそらく貧太同様、拾った漫画雑誌を読んだのだろう



本作では明らかに、キャノン先生が貧太のトラウマと癒しを再演した存在として描かれている。
それは、「イジメ」「漫画による癒し」といった要素だけを抜き出してみても明らかだし、また、先ほど引用したキャノン先生の慟哭に答えるのが貧太であるということ――つまり二人は問いと答えを共有している――からも見て取れる。


だがもっと重要なのは、重ねられている二人のトラウマの間には微妙なズレがあるということだ。
2人がトラウマを植え付けられた時代が違うのは当然として、トラウマの理由についても差異がある。
貧太が「オタクであること」を理由に、ある時代に特有の社会的風潮から抑圧を受けたのに対して、キャノン先生は「幼いにもかかわらず性に興味がある」ということを理由に、「子供が性に興味を持つべきでない」という比較的広い時代で通用する道徳意識に基づき怒られ、笑われている。
要するに、二人が直面している具体的な問題は別物なのだ。


にもかかわらず両者を、同じ悩みと癒しを再演した存在として重ねるとすれば、それは問題の抽象化に他ならない。
つまり、「オタク差別」や、「子供にとってのタブーとしてのセックス」といった問題が、「忌避され、蔑まれる物としての性・エロ」という抽象的な問題のもとに包摂され、ひとくくりにされているのだ。
そう、本作のエロ漫画論が「ノスタルジー」ないし時代に局限された実感から出発しながら、同時に普遍的な共感を得ることに成功しているのは、貧太とキャノン先生の相互にズレたトラウマと癒しを重ね合わせることで、問題を抽象化することに成功しているからなのだ。


例えば多くの男性が、エロ本を同居人(親など)からどう隠すか、頭をひねらせたことが一度くらいはあるはずだ。あるいは腐女子の人なら、自分がBL好きであることを周りから隠そうとした経験があるかもしれない。
「忌避されるものとしての性・エロ」として抽象的にとらえられた問題関心は、具体的な発現の仕方は様々あれど、誰でも思い当たるような普遍的なものである。
そして読者の特殊具体的なエロについての悩みやモヤモヤが、抽象化された問題関心を媒介としてキャノン先生や貧太のトラウマと共感でつながるとき、読者がキャノン先生や貧太の癒しをさらに再演することとなる。というのも読者もまた、『キャノン先生トばしすぎ!』という漫画作品によって自らのエロさを肯定されることになるのだから。
読者を作品に巻き込むこの巧妙な構造こそが、エロ漫画論を語るメタエロ漫画としての『キャントば』が、多くの読者を感動させる理由である。



・落書きについて



ここまで分析してきたように、『キャントば』は、読者の共感と感動を誘うよう巧妙に作られた作品である。
しかし、私はメタエロ漫画としての『キャントば』には、ひとつのミスがあるとも考えている。
というのも、『キャントば』は本当の意味でエロ漫画への愛を謳いあげることに失敗している――むしろエロ漫画以外の何かへの愛をこそ語っているように読めてしまうのだ。


既に述べてきた通り、『キャントば』では、貧太が自らのトラウマを、エロ漫画を読むことをきっかけにして癒す過程が描かれる。そこには、『キャントば』を読んで感動する読者が重ねられているということもまた、既に述べた。ゆえに、本作は読者へ「エロ漫画の素晴らしさ」を語るものとなっているように見える。しかし、本当だろうか?


もう少し細かく見てみよう。貧太の癒しのきっかけになったのは、実はエロ漫画ではない。エロ漫画の中の落書きの文章である。また『キャントば』の中で感動的な部分のほとんどは、エロシーンではない。貧太・キャノン先生の過去回想シーンや、エロ漫画に真剣に向かう貧太を描くシーンである。つまり、エロ漫画としての『キャントば』の中では、いわば「背景の落書き」というようなシーンである。



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↑背景の落書きに感動する貧太――を描くこのシーン自体がエロマンガとしての『キャントば』にとっては「背景の落書き」であるという、自己言及的な構造がある



背景の落書きの文章を読んで涙を流す貧太、『キャントば』の非エロシーンを読んで感動する読者――が重なるとき、「エロ漫画」にとってもっとも根本的であるはずの、エロいシーンとそれを読んで興奮する読者という対は、すっぽり抜け落ちているのではないだろうか?つまり実は、「エロ漫画」そのものの素晴らしさは語られてはおらず、もっと違うものが称揚されていることにならないか?


このことに気づくとき、貧太が読んだ背景の落書きが、アニメ作品について語った文章であるというのは示唆的な意味を持ってしまう。「アニメについて語る」落書き、「エロマンガについて語る」『キャントば』の非エロシーン、そうしたものが、アニメやエロ漫画そのものよりも重要なものであるかのようにも読めてしまうのだ。つまり、『キャントば』は、エロ漫画そのものというよりも、作品についてのメタ視点からの「語り」への愛を謳っているようにも読めてしまうのだ。
もしも以上の読解を採用するなら、本作は「エロ漫画愛」を語ることに失敗している。むしろ、エロ漫画そのものに誠実に向き合えていないという批判を受けても仕方ないだろう。エロ漫画論をエロ漫画のなかにコーディングしきれず、メタな役割を担う非エロシーンとエロシーンが分離してしまった結果、ネガティブな読解の可能性を生んでしまっている、と言ってもいい。


・最後に


以上、『キャントば』のメタエロ漫画としての特徴を分析してきた。
最後に述べたように、私は『キャントば』は小さくない問題を抱えた作品だと考えている。しかし、この記事の前半で分析したような、時代的な強度と普遍的な共感を両立させる見事な技巧や、前回述べた「ロッキー」的な負け犬物語を描く脚本は、そんな欠点を補って余りある。何度も強調してきたように本作は、エロ漫画ファンが共感できるようなメッセージがあるから名作なのではない。端的によくできているのだ。これほどまでにウェルメイドなエロ漫画を私は他に知らない。もしもあなたがまだ本作を読んだことがないのならば、ぜひとも新装版を手に取って読んでみてほしい


※以下で「戦略」や「技巧」というとき、作者自身の意識や意図の存在は含意していない。あくまで、結果的にある特定の効果を発揮してしまった(結果的に「戦略」や「技巧」として機能した)作品の特徴のことを「戦略」や「技巧」と読んでいる。後に引用する宝田のコメントを読んでもらえば分かる通り、本記事で私が指摘した「戦略」について、宝田自身は意識的でなかったように見える。