2016年のエロ漫画関連ニュースの中で私にとって特に大きな驚きだったのは、
2008年にオークスから一度刊行され、その後絶版となっていた、ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ!』の再販であった。※0

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そもそもエロ漫画が装いを変えて再販されること自体が珍しいことだが、
口リ作品である『キャントば』が、巨乳ヒロインがトレードマークのエンジェル出版から再販されるというのだ。
このような異例の出来事が実現したのもひとえに『キャントば』が、
エロマンガを代表する名作として、エロマンガファンの広くはない枠を超えるほどの支持を集めているからであろう。



・『キャントば』はなぜ感動的なのか?



『キャントば』は、思うように活躍できないまま中年に差し掛かった遅筆のエロマンガ家である貧太(表紙の男性)が、
大ヒットエロマンガ家でありながら未成年の少女であるキャノン先生(表紙の少女)と愛を深めつつ、
作家として再起しようと奮闘する物語だ。


本作はエロマンガ界でも特殊な立ち位置を持つ作品である。というのも、稀見理都がすでに指摘しているように、
「抜く」ことを究極の目標とするはずのエロマンガでありながら、「エロいか否か」とは別の軸――つまり「感動」という軸で、
広く高い評価を受けているのだ。※1
では『キャントば』が「感動の名作」として受け入れられることになったのはなぜだろうか?


一つの可能な説明は、『キャントば』が伝えているメッセージにその原因を求めるものだ。
後に詳しく確認するが、『キャントば』は「エロ漫画とは何か?」「人間にとってエロとは何か?」という問いを投げかけ、
答えとして力強くエロ漫画やエロを肯定するという、「メタエロ漫画」としての性格を持っている。
そのメッセージが、特にエロ漫画読者にとって感動的である、というのは、
『キャントば』への賛辞としてしばしば語られることである。


しかし、この説明はどこまで説得的だろうか?
新装版のカバー下で宝田自身が語っているように※2、『キャントば』の顕著な達成の一つは、
それまでエロマンガを読んだことがないような読者にまでリーチし、評価を勝ち得たという点にある。
このことを考えるとき、『キャントば』のもつ感動を、「エロ漫画賛歌」によって説明することは、
一見するほど有効でないと言わざるを得ないのではないか。


また、そもそも良いメッセージを語っていることが、必ずしも感動的な漫画を生むことにはならない。
漫画はスローガンや論文ではない。重要なのは、メッセージをどのように作品としてパッケージするかという点にある。



・メッセージからドラマへ。『キャントば』=『ロッキー』説



思うに『キャントば』が感動的なのは、そのメッセージの感動と同程度、あるいはそれ以上に、
そのドラマの持つ構造の強靭さに理由がある。
単刀直入に結論を述べれば、『キャントば』が感動的なのは、
『キャントば』が『ロッキー』であり『ロッキー』が感動的であるからだ、と言いたい。


『ロッキー』は、1976年に公開された、S・スタローン脚本・主演のボクシング映画である。
今更説明するのも馬鹿馬鹿しいほど有名な作品だが、負け犬ボクサー・ロッキーが、
人生の逆転をかけて世界チャンピオンとの試合に挑む、というお話の映画だ。


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↑私などはポスターを見ているだけでもう泣けてくる


・『ロッキー』と『キャントば』 人物関係の視点から


『ロッキー』と『キャントば』が、そのドラマ・ストーリーに注目したとき、いかに似ているのか。
まず人物関係という側面から見てみよう。


『キャントば』は、うだつのあがらない中年エロ漫画家・貧太が主人公だ。
彼はキャノン先生という恋人と出会い愛をはぐくむ。
彼の前には若手のホープ・海乃がライバルとして立ちはだかる。
キャノン先生の愛と、編集長の厳しい叱咤を受けながら、
貧太は自らの作品を書き切るべく努力する。


一方『ロッキー』は、うだつのあがらない中年ボクサーロッキーが主人公であり、
彼はエイドリアンという恋人と出会い愛をはぐくむ。
後に生涯のライバルとなるアポロ・クリードに対峙し、
エイドリアンの愛と、老トレーナーミッキーの叱咤とともに、
タイトルマッチを戦い抜く。


このように整理すると、


貧太ロッキー
キャノン先生エイドリアン
海乃アポロ
編集長ミッキー



という形での対応が見えてくるだろう。
つまり、メインキャラクターとその間の人物関係が、ほとんど一対一で対応しているのである。
(ただし、エイドリアンの兄・ポーリーは『キャントば』に対応するキャラクターがいない。
また当然だが対応づけられたキャラがなにからなにまで全く同じ存在だというわけでもない。
あくまでそれぞれの人物の役割と相互関係が、ある程度類似している、ということである)


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↑貧太、キャノン先生、海乃、編集長。ロッキー、エイドリアン、アポロ、ミッキー、にほぼ対応する


『ロッキー』は、その名前に反し、ロッキーだけの物語ではない。
ロッキーを取り巻く人々がそれぞれに抱えているドラマや、彼らとロッキーとの人間関係といったサブプロット群が、
メインプロットに有機的に絡むことで、豊かな感動をもたらしている。
『キャントば』もまた同様である。上述の人間関係に基づいて、
非エロシーンにページを割きづらいエロ漫画というメディアにおいては例外的なほど、複雑なサブプロットが語られる。
そうした枝の一つ一つが幹であるメインプロットに一気に合流し、物語全体を解決に導くという展開の妙が、
『キャントば』終盤の感動を生んでいるのだ。



・『ロッキー』と『キャントば』 主人公の動機という視点から



次に、メインプロットの骨格をなす、主人公の動機に目を向けてみよう。
『ロッキー』も『キャントば』も、どん底に陥った主人公が、
自らが戦うべき・ペンを振るうべき動機に立ち返ることによって復活することが、
クライマックスの解決に向けての「てこ」となる。
その場面で主人公が話すことになるセリフを振り返ってみよう。


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アポロ・クリードとの戦いの前夜、今までに立ったことのない大掛かりな試合会場を下見したロッキーは、
自らがとてもチャンプになれる器ではない、ということを悟ってしまう。
弱気なロッキーを慰めようとするエイドリアンに、彼は次のように話す。
「だめだ。勝てないよ。(中略)だがどうでもいい。負けてもどうってことはねえんだ。脳天を勝ち割られても関係ない。最後までやる(go the distance)だけだ。クリードと最後までやりあった奴はいない。もし俺が15ラウンド戦って、ゴングが鳴ってもまだ立っていられたら、おれは初めて、自分がただのごろつきじゃないって実感できる


一方で、原稿を雑誌に載せることができる最後のチャンスにもかかわらず、期限までの入稿が絶望的になってしまった貧太は、
自らがなぜエロマンガ家を志したかを思い出す。
オタクが迫害されていた時代(本作には宮崎事件の記憶が投影されている)を過ごしていた少年の彼は、
イジメを恐れ、自らの趣味嗜好を隠し生きることに疲れ切っていた。
そんなとき彼は道端でエロマンガを拾い、欄外の落書きの内容に涙を流す。
「こんな時代にっ…きっと/たくさんの人が見ているハズのマンガの中にっアニメの中の少女が「好きだ」って…(中略)僕も叫んでみたいっ/この作者みたいに…/僕だって美少女が好きだぞって…/アニメやマンガの女の子が好きで…僕はオタクだぞ…って


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自らの原点を辿りなおした貧太は、間に合うはずのない原稿に向かい、キャノン先生に宣言する。
間に合わないかもしれません…いえっ間に合うハズがありませんっ/わはははははっ/でもやるんですっ僕は…/やらずにはおくものかっ」


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二人のセリフは一見全く違ったトピックについて語っているようで、本質的な2つの点で共通している。
一つ、両者にとってそれぞれの仕事(ボクシング・エロ漫画)が、
自らのアイデンティティの根拠となっているという表明である。
そしてもう一つはそれゆえに、自らが納得できるまでやるということが重要なのであり、
客観的な成功(タイトル獲得・期限内の入稿)は二の次であるということだ。
本当に重要なのは相手や締め切りに勝つことではない。自分自身を恥じないためのプライドを掴むことだ。
そのために戦うからこそロッキーのボクシングは、そして貧太の努力は胸を打つのだ。


・『キャントば』が『ロッキー』を超えた場所



以上のように、主人公を取り巻く人物関係、および主人公の動機という二つの面から、
『ロッキー』と『キャントば』のストーリーの類似性を見て取ることができる。
『ロッキー』のストーリー構造が優れており、
そこで描かれるドラマ――負け犬のプライド、不器用な青春と愛、師との衝突と和解――が多くの観客の共感を誘ってきたということは、
『ロッキー』が歴史に残る名作とされ、いまだ多くの涙と感動をもたらしていることで証明されている。
『キャントば』が感動的なのは、このような強靭な脚本の構造を、
(実際の影響関係はどうあれ結果的には)エロ漫画についての話として見事に換骨奪胎し、
語りなおしているからなのだ。


ただしもちろん、『キャントば』は単に『ロッキー』を"移植"した作品ではない。
『キャンとば』にあって『ロッキー』にない美点として、キャノン先生のキャラクター設定がある。


『ロッキー』におけるエイドリアンは、基本的にはロッキーを支える存在として設定されており、
彼女自身のこだわりや欲望といったものはあまり前面に出されない。
彼女がロッキーを叱咤できるほどの積極性を得るまでには、『ロッキー3』まで待たねばならない。
対して、キャノン先生は、貧太をけなげに愛し、彼を支える少女としての側面をもちろん備えているが、
同時にエロに関する重大なトラウマを克服しようという自分自身の動機を持ち、
さらに、一流エロ漫画家として貧太を導く存在でもある。
このような複雑な性格と確かな自我のおかげで、キャノン先生はとても魅力的なヒロインとなっている。



(続きます。次回は、『キャントば』のメタエロ漫画としての性格を分析します。個人的には『キャントば』は優れた作品だと思いつつもどうしても好きになりきれない点があるのですが、その理由なども説明するつもりです。)

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※0この記事、及びこの記事の続編は、実質的にはエロマンガ夜話第二回で新野が語った『キャントば』論の要約・敷衍です。ただし初期の夜話は時間も長く、語りもダラダラしているので、やや聞きづらいものとなっております。そこで今回、簡潔にまとめ、画像も入れて文章化することにしました。

※1「しかし、抜けてなんぼ!というエロマンガの価値基準が大部分を占める世界において、感動、喜びが、抜き至上主義より勝った!という出来事は、ある意味エロマンガ界に新しい価値基準を提示し、そして読者がそれを支持した結果であろう。」”少女キャラクターから見る、ゴージャス宝田の作品論”

※2「前回単行本化の際には『それまでエロは読んでなかったケド今回はじめて読みました!』等のお手紙をたくさん頂きました。」『キャノン先生トばしすぎ ぜんぶ射精し!』裏表紙カバー下