もしも私が「あらゆるエロ漫画短編の中でもっとも面白い作品は何か?」と聞かれたら、世徒ゆうきの「一線」(『ストレッタ』所収)だと答える。


「一線」は22ページの短編エロ漫画である。ヒロイン「かぬえ」が、義理の弟である「ひのと」を性的に誘惑する。二人はすでに愛撫や口淫で関係を持っているのだが、姉は「一線」を超えようと持ちかける。あらすじだけみれば平凡な作品である。


にも関わらず「一線」が魅力的なのは何故か?それをこの記事で説明したいと思う。予め結論だけ述べておけば、語られる話の内容そのものではなく、「語られ方」にこそ、「一線」の魅力がある。「一線」は、定型的な近親相姦ストーリーを異様にわかりにくく語る。しかしただわかりにくいだけでは駄作になってしまうだろう。本作の「わかりにくさ」には意味がある。「わかりにくさ」による演出効果が、本作を傑作としている。



・冒頭部の場面転換


まず本作の「わかりにくさ」の一部を伝えるために、冒頭の四ページを掲げることにしたい。

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繰り返しになるが、この四ページは本作の冒頭部であり、これ以前に一切の状況説明は存在しない。従ってもしあなたがこの四ページを初めて読んでいるとしたら、それは本作を初めて読む読者と同じ経験をしていることになる。


おそらく多くの人が、この四ページをすらすらと読むことができないのではないだろうか。途中で何度か、「これは前のコマとどうつながっているのか?」と、立ち止まってしまうはずである。


もう少し具体的にこのわかりにくさを説明しよう。このわずか四ページには、全部で四回の場面転換が存在している。それぞれ、A、C、E、Fとラベリングしたコマにおいて、それ以前のコマから時系列の断絶したシーンが開始されている。それぞれのシーンを整理すると次のようになる。


1.冒頭部からAの直前まで……二人が親の目から隠れてキスしているシーン、場所は不明
2.AからCの直前まで……二人が母親と会話しながら朝食を食べているシーン、場所はリビング
3.CからEの直前まで……かぬえがひのとのパンツにつばを垂らすシーン、場所は不明(背景から1とは別の場所と推察できる)
4.EからFの直前まで……二人が母親と会話しながら朝食を食べているシーン、場所はリビング
5.F以降……二人が登校しているシーン、場所は電車


時系列的には、
3→2→4→5
と並んでいる(1がどこに入るかは不明)。


つまり、たった四ページで五つもの場面が示され、さらに時系列もシャッフルされているわけである。これだけでも非常にわかりにくい。だが、この四ページのわかりにくさには、より大きな原因が別にある。それは、個々の場面転換の仕方である。


Fの場面転換を他の場面転換と比較してみよう。Fにおいてはまず、前のコマとの間に比較的広めの余白が開けられ、これが「場面転換が起こっている」記号として機能している。さらにFは、二人が乗る電車をロングショットから捉えたコマであり、これまでとは違う場所にシーンが移行したことを説明している。こうした丁寧な仕掛けによって、Fの場面転換を場面転換として読み取り、どんな場面からどんな場面に移ったのかを理解することにはそれほど困難がない。


これに比べると、A、C、Eは遥かに不親切である。まずCの転換を見てみよう。Cと前のコマの間には、Fのような広めの余白は取られていない。また、Cは顔のクローズアップなので、前のコマから別の場所に移行したということをこのコマから読み取ることも困難である。このコマでリビングからの場面転換が発生したことを知ることができるのは、Dにおいてロングショットでリビング以外の光景が示され、加えてDとCの連続性を読者が見て取った時が初めてである。


Eも同様である。Eと前のコマの間にも広い余白はない。加えてEは脚のクローズアップなので、場所が変わったことが読み取れない。極め付けに、Eの擬音(「グリグリ」)が直前のコマにはみ出しているために、Eは前のコマと連続性を持っているかのように感じられる。以上の特徴が、Eの場面転換を読み取ることを困難としている。


Aについては余白自体は広めに取られているが、サンドイッチのクローズアップなので、コマの内容から場面転換を推理するのは困難である。さらに、直前のコマまでで提示された疑問文「(私達にキスは許される?)粘膜の接触、体液の交換」に対して台詞のあるコマが続くので、一見すると直前のコマの会話がAまで続いているように見えてしまう。こうした事情から、Bのコマを読むまでは、Aで行われた場面転換を理解するのは難しいだろう。


このように、A、C、Eの場面転換は、Fの場面転換に比べて、「場面転換が起こっている」ということを示す仕掛けが欠けており、圧倒的に読み取りにくくなっている。ここで注目すべきは、同じ漫画の中にFのようなわかりやすい場面転換と、A、C、Eのようなわかりにくい場面転換が混在しているということである。つまり、世徒ゆうきは、技量不足のためにA、C、Eのような場面転換を書いたわけではない。そこには意志が働いている。ではなぜ、世徒ゆうきはこのような理解困難な場面転換を採用したのか?


作者自身の意図を知ることは私にはできないが、私は次のように推察する。作者は、この二ページの場面転換をあえてわかりにくくすることによって、姉弟の性的に爛れた生活が、母親を目の前にした日常の場面にまで侵食していること、性と日常の間の境界が混乱していること、を強調したかったのではないか。そのために、1、3のような露骨に性的なシーンと、2、4のような(表面上)日常的なシーンの間の境界を、読者が混乱するように仕向けたのではないか。


以上の推察が当たっているかどうかはともかく、この特殊な場面転換が本作の冒頭に異様な緊張感をもたらし、姉弟の間の性的関係の異常性・背徳性を演出する効果をもたらしていることは間違いがないように思われる。このわかりにくさは単なるわかりにくさではなく、意味があるわけだ。



・切り詰められた台詞



「場面転換のわかりにくさ」はこれくらいにして、別種のわかりにくさに話題を移そう。本作の説明台詞の少なさである。


すでに掲げた二ページの中でもこの特徴は見て取れる。もしも「義理の姉が弟に一線を越えるよう誘惑する」話を短編において描こうとするならばまず、この二人が義理の姉弟であり、性的な関係を持ってはいるが、一線を超えることを躊躇している……というような基本設定を冒頭で手際よく語って見せなければならない。普通こうした内容は、回想シーンに説明台詞を交えて提示される。


本作も、冒頭四ページで以上のような基本設定を語りきってはいる。が、ここには説明台詞も回想シーンもない。まず、二人が義理の姉弟であることは直接語られず、「ゴメンなさいね~」「そんな、家族が増えて~」という台詞から推理しなければならない。さらに、二人が性的な関係にあることは、台詞ではなく絵で示される。そして弟の躊躇は、「私達にキスは許される?」という姉の挑発的な問いかけによってやはりあくまで間接的に語られる。


別の例を見よう。次のページを見て欲しい。


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これは二人が登校した直後のシーンである。このシーンでは、

・かぬえはひのとを単に弄んでいるのではなく、彼に純粋な愛を感じているらしいこと
・ひのとは「君葉さん」という女性に恋しているらしいこと
・かぬえが君葉に嫉妬していること

という三つの情報(三角関係)が提示されている。


だが、このどれひとつとして台詞で直接的に描写されることはない。かぬえのひのとへの思いは彼女の表情(赤く染まった頬)によって語られ、ひのとの君葉への思いはひのとの君葉への呼びかけのフォント(大きな文字)によって語られ、かぬえの君葉への思いもやはり表情(冷たい目)によって語られている。


このように本作においては、基本設定や人物の心情が台詞によって説明されることがほとんどない。我々は表情や描写、何気ない台詞をもとにして、話の内容を推理することを要求される。これが、本作の持っている第二のわかりにくさである。


無駄な説明台詞を排していることはもちろん、それ自体明らかな美徳である。だが、第一のわかりにくさと同様、第二のわかりにくさもまた、それ自体を目的とするものではなく、別の演出効果を持つ。説明台詞を排することによって、我々はキャラクターの一挙手一投足、一言一言を捉えて、その意味、重み、表現するところを考えるよう誘われる。有り体に言えば、一つ一つの描写の重みが増してくるのである。このように描写の重みを増すことは、本作のラストシーンを成立させるためには必要不可欠である。そのことを、節を改めて論じよう。



・ひのとの一言


本作はミステリ的な構造を持ち、最後にちょっとしたどんでん返しが起こるようになっている。ネタバレを防ぐために詳しくは書かないが、本作のオチは、ひのとが発したある一言が、二人の関係を決定的に変えてしまう、というものである。


ひのとの「一言」こそが、本作で最も難解なところである。かれがなぜこの「一言」を発したのか、なぜこの「一言」が二人の関係をこうまで変えてしまったのか、そのことは台詞によって説明されないだけでなく、手がかりになる描写もほとんどない。読者は寄る辺ない空白に投げ出されたまま、その「一言」を発したひのとの思い、その「一言」を受けたかぬえの気持ちを自分で考えるように誘われる。この読者の想像力をかきたてるラストこそが、本作の最大の魅力である。


そして、このラストに照らしてみれば、本作が説明台詞を徹底的に排さねばならなかった理由がわかる。このラストが機能するためには、読者がひのとの「一言」について必死に考えるような態度を持っていなければならない。そのためにこそ、説明台詞を排し、ひとつひとつの描写の重みを増しておく必要があったのだ。基本設定すら断片的な描写から推理しなければならない状況に置かれているからこそ、読者はラストに空いた「空白」を自分で埋めるよう誘われるのである。



・最後に


以上、「一線」の魅力を、特殊な場面転換による姉弟間の関係の異常性の演出と、説明台詞を排したことによる想像力の刺激、という二点から説明してきた。「一線」はわかりにくい作品であるが、その「わかりにくさ」は、この物語の面白さを引き出すために必要なものなのである。


エロ漫画はその機能性を高めるためにとにかく「わかりやすい」作品が多い。その中にあって「一線」は特異な輝きを放っている。「一線」を読む経験は、「自分は何か他のエロ漫画と違うものを読んでいる」、という興奮と緊張に満ちている。