新野安と夜話のブログ

新野安がマンガやエロマンガについて文章を書いたりするブログ。Webラジオ「エロマンガ夜話」「OVA夜話」の過去ログ紹介も。

カテゴリ: 作品論

この記事は、serial experiments lain Advent Calender 2018(https://adventar.org/calendars/3510)の24日目です。




『serial experiments lain』20周年。賑やかだったメモリアルイヤーも終わりまであと一週間だ(注1)。『lain』は私のフェイバリット・アニメであり、だから『lain』について何か書きたい、いや書かなければ、と漠然たる義務感を今年一年感じてきた。好きだからこそきちんと準備した文章にしたい、だがそのための作業をする暇もなく、結局何もせず年の瀬を迎えてしまった。もう四の五の言っていられない。メモ書き程度の内容でも、何もしないよりマシだろう。



『lain』は一応、多くの人に「重要作」と認識されていると思う。だが、「電波」「怪作」という形容を同時に受けるように、決して誰もがすんなり楽しめるアニメではない。結論を先延ばしするストーリー、象徴的意味どころか文字通りの理解さえ難しい奇妙な描写。それでもめげずに私が『lain』を見切りラストに感動することができたのは、毎回冒頭に流れるOPが実にカッコよく魅力的だったからだ。中でも私がやられたのは、(オンエア版のOPでは一部カットされている)最後の歩道橋の部分である。



歩道橋を上がる玲音。最上部を歩いている彼女に風が吹き、帽子が飛ばされる。おそらくその風の発生源である烏が玲音のすぐ近くを過り、カメラの手前へ飛んでいく。モノクロになる画面、ストップモーション。


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その後、色調は戻り、玲音の表情にアップ。彼女の顔にかかる烏の影は微動だにしない。玲音は歩道橋を歩いていく。彼女の背後で飛ばされた帽子が空中に静止している。


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この一連の映像には、『lain』本編のエッセンスが込められている。といっても、歩道橋が最終回の重要なシーンで現れるから、という話ではない。決定的な別離を経たありすと玲音の、再会と言えるかどうかもわからない曖昧な邂逅は、確かに同じ歩道橋で起こっていた。だが、仮に『lain』を初めて見る人でも、OPの歩道橋で何かしらの切なさを感じるだろうし、『lain』を見進めていくにつれ、その切なさを『lain』らしいと感じるのではないか。少なくとも私はそうだった。つまり単に似た背景が本編のシーンを思い出させて心を揺さぶる、だけではない。


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ではどういう意味でこのシーンが『lain』的であると言えるのか。それを説明するには、展開されている表現的な実験を解きほぐさねばならない。まず歩道橋の場面で驚くべきことは、玲音が視聴者と同じ、静止した世界を体験しているように見える点だ。


映える象徴的な画面を強調するために、画面を止める。ごく普通の映像テクニックであるストップモーションは、視聴者や監督が住む、画面のこちら側で生起する事態である。例えば『ドラゴン怒りの鉄拳』は、銃を構える敵との絶望的な戦いに挑むブルース・リーが飛び上がったストップモーションで終わるが、ここでブルース・リーが怒りのあまり超能力に覚醒し空中で静止したと思うものは、映画の基本的な見方を理解していない。画面の向こう側の世界では対応する静止はなく、ごく普通にブルース・リーが飛び上がり落ちる。止まったのはあくまでブルース・リーが映った映画の画面である。作品内世界から一瞬だけを切り出し、作品外世界の画面でそれを描き画面を止める、そういう事態がストップモーションであると整理できる。


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ところが、『lain』のOPではそうなっていない。ストップモーションの後映るのは、空中に静止した烏と帽子、平然と歩道橋を歩く玲音(注2)。動くことのできる玲音には、烏も止まって見えているはずだ。さっき視聴者がストップモーションで見ていたように。つまり、玲音は、視聴者にとってのみ存在するはずのストップモーションを体験している。画面の向こう側にいるはずの玲音は、画面のこちら側での演出的静止を認識している。繰り返すが、作品内の時間ではなにも止まっていない。何かが止まっているとすれば、現実の時間に対してである。従って、作品内の時間ではなく、現実の時間の中で、玲音は生きている。


では、歩道橋のシーンで玲音はアニメを飛び出し視聴者の世界にやってきたのか。例えば最終話で玲音が視聴者に向け話しかける、いわゆる「第四の壁」破りと同じ種類の事態とみて良いのだろうか。そう言い切ってしまうと、このシーンの重要な情感が切り落とされてしまう。端的に言えば、玲音はもっと寂しく見える。歩道橋のシーンのもう一つの仕掛けに注意するとその理由がわかってくる。



確かに「玲音が止まった世界で動いていること」も奇妙だ。だがそもそもこの「止まった世界」自体が変ではないか。くどいようだが、ストップモーションは映像作品の画面が止まることである。本来ストップモーションの画面は動いている作品内世界の一瞬を切り取ったものである。止まっているのは現実の二次元的な画面であり、動いているのは作品内の三次元的な世界である。ところが歩道橋のシーンでは、ストップモーションの前に風で飛ばされた帽子が飛ばされた途中の位置で静止し、多数のアングルから映されている。従って、ストップモーション以前から継承された作品内の三次元的空間で帽子は静止している。よって、ストップモーションが起こっている画面外の現実と、演出など無関係に前のシーンから人物や物体が生息していた作品内世界という、全く異なる二つの世界のうち、前者の時間と後者の空間を掛け合わせた時空が開けていることになる。この、どこにも存在しないはずの奇怪なキメラ世界自体が、この場面でもうひとつ驚くべき点である。



第四の壁を破って玲音がこちらに話しかけてくるとき、我々は玲音と、玲音は我々と繋がっている、と感じられる。ブラウン管の中にいる玲音が、ガラスを隔てて、こちらを見ている。アニメを見ている私に、今、玲音が話しかけている。会話によるコミュニケーションの前提として、時空を共有するという根源的な繋がりがそこにある。だがOPで歩道橋を歩く玲音は違う。我々の手に届かない作品内の歩道橋を歩いている。だから彼女には止まった烏は見えても我々は見えない。我々と玲音は異なる空間に隔てられている。そして彼女は自分が元いたはずの作品内世界とも交流できない。飛ばされた帽子を玲音は拾わずに歩き去るが、きっとそれは帽子が飛ばされたとか拾うとかいったことが成立しない、演出の論理によって絶対に対象が動かないストップモーションに自分がたった今入り込んだと知っているからだ。周囲と玲音は異なる時間に隔てられている。つまりここで描かれるのは、複数のリアリティを行き来することができる玲音が、結果どことも断絶した狭間でひとり迷子になる様子だ。



『lain』はそもそもそういう物語だった。ワイヤードと現実を行き来することができるがゆえに、ワイヤードにも現実にも居場所を見つけきれない。どこにでもいられるがゆえにどこにもいられない。第四の壁を超えて我々と時空を共有できても、結局砂嵐の中にすぐ飲み込まれてしまう。歩道橋の上でちょっと憂鬱そうにとぼとぼと歩く玲音から目が離せないのは、我々がそこに、作品全体で彼女が背負うことになる孤独を見て取らざるをえないからなのである。
 


注1:「2018年」をメモリアルイヤーと考えるのではなく、アニメ放送開始(1998年7月)を基準にすれば、来年の途中まで続くことになるが。
注2:静と動の対比を描くにあたり、スクランブル交差点のような動きが溢れる場所を選ばなかったのが正しい。「静止」できるのは、「動いているはず」のものである。ずっと動いていない富士山は「止まる」ことができない。だから動きの溢れる場所でこの仕掛けを展開すれば、画面に「静止」が溢れることになる。だが閑散とした歩道橋の上で、歩く玲音と比較されるのは小さな烏と帽子だけだ。情報量を削ぐクールさ。「静止」と「動作」を限られた対象に凝縮して担わせることで、画面上で対比の緊張感が高まる。


※これは2018/11/25に行われたイベント「第二十七回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、ひかけんが書いた記事のみを転載したものです。ペーパーのPDF版はこちら。

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今月号(二〇一八年十一月刊)から、エロマンガ雑誌『コミックアンリアル』の表紙絵師が変わった。アンリアルといえば、モグダンの描く乳首の透けた爆乳人外女性の表紙絵を連想する人も多いと思う。創刊から
12年間、75冊の表紙絵を一貫して担当していたモグダンだが、前号のあとがきにて「今回でアンリアルの表紙は最後です」ときっぱり書いているので世代交代ということだろう(ありがとうございました) 。

さて今号の表紙は佐藤空気が担当した(図) 。それこそ村田蓮爾以降の「快楽天」方式で、 表紙絵は持ち回りになるかもしれないが、今号は佐藤空気の連載「愛聖天使ラブメアリー」の最終回掲載ということもあって、ヒロインの朝比奈あかり(サキュメアリップ)が表紙担当になっている。

「愛聖天使ラブメアリー」は、二〇一七年七月刊から全九話で連載された、コミックアンリアルにほぼ毎号載っている「魔法少女に変身して戦うも、魔物に捕らわれてエロいことをされる」タイプの物語だ。ただ、このマンガには戦闘シーンがほぼない。全部で三人の魔法少女が登場するが、いきなりラスボスの堕邪神エルゼアムと対峙するため、みんな敵を倒すどころか攻撃モーションすら見せないままに拘束され、 ラスボスに調教され記憶を消され、 のローテーションの中で堕とされていくのがお決まりのパターンになっている。メインヒロインの朝比奈あかりはとても強い魔力を授かったのだが場馴れしておらず、封印されていたラスボスの完全復活のためにその魔力を利用され、途中悪堕ちして他の二人の洗脳調教に加担するようになる。

「ラブメアリー」について何を特に語りたいかというと、ヒロインの一人・真尋ゆづきが男の子であるということ。そして、悪堕ちして女の子になるという展開についてだ。

ゆづきもお決まりの展開で敵方にとらわれて、まず男性としての機能を利用される。魔力を持ったゆづきの精液にエルゼアムが瘴気を吹き込み、それをあかりの体内で射精させることで、防御力の高いあかりを悪堕ちさせようというのだ。ここであかりが強烈な快楽の果てに悪堕ちするのに対し、ゆづきは快楽に翻弄されるものの悪堕ちには至らない。役目を果たしたゆづきへ何故か触手アナル責めが始まるところで第五話が終わる。

第六話でゆづきはラスト、引きの一コマまで登場しない。一話分登場しない間も調教を受け続けているというこの設定が、連作というフォーマットを上手く生かしている。第七話は一話まるまる
20ページをかけてじわじわとゆづきを女体化するという趣向になっていて、男性器が縮み、乳房が形成され、髪が伸び……といった描写がじっくりと描かれる。それでも正気を保ち続けたゆづきに、悪堕ちしたあかりは自らの受けてきた快楽をゆづきに追体験させ、堰が切れたかのようにゆづきが自ら「女の子にしてくださいぃっ」と叫ぶと、全身を瘴気につつまれたゆづきが妖艶な美少女になって表れる。

マンガに限らず男性向けエロコンテンツにおいて、 「そもそも肉体的なレベルで、女性が感じる快楽は男性より(遥かに)強い」という物語上の信仰が現れることがある(それを読者や作者が現実に信じているかはともかく) 。例えばレイプモノで「感じてしまう」といった描写はフィクションに過ぎないのだが、読んでいる間だけそれを真に受ける雑なエクスキューズとして、この信仰が機能することがあるだろう。アンリアルが得意とする女体化モノの作品もこの前提が重要で、男性読者から見て得ることのできない快楽への希求がエロさの推進力となっている部分はある。

「そうか、責められ続けた末にひとは女の子になってしまうのか」(ファンタジーです)……という感慨があったのは、ラストでゆづきもエルゼアムの子を産む存在になる、という物語上の要請ももちろんある一方で、あかりの快楽を追体験することが堕ちのトリガーになるという描写に 「女性の快楽への信仰」 の強さを感じたからだ。第八話後編(最終話)であまり「元男性」という設定が生かされず、なぜか単純に男性器が再び生えてきたりしていたのが少し残念だったのだが、第七話の丁寧な堕ち過程は全編を見ても見応えのある描写だったので、来年発売の単行本ではぜひ注目していただきたい。

ここまでまったく触れていない三人目のヒロイン・真尋ゆり(ゆづきの妹)が終盤で悪堕ちするスピード感は潔いほどなので(台詞回しもギャグにふっている感がある) 、最後は単純にページ数が詰まってしまったのかもしれない。それだけゆづきの堕ち描写に力を割いていただいたということで、女体化モノウォッチャーとしてはありがたい限りでした。
  

※これは2018/11/25に行われたイベント「第二十七回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、新野安が書いた記事のみを転載したものです。ペーパーのPDF版はこちら。

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『ガラスの仮面』文庫版 10 巻 p.310

美内すずえは執筆の際、集中力を高めてまず中心的イメージを閃き、そこから逆算してプロットを組み立てていくのだという( 『ガラスの仮面展』公式ビジュアルブック、美内すずえロングインタビュー) 。 『ガラスの仮面』における数々の名シーンは、 「キメ」を重視する彼女の姿勢から生まれたものだ。中でも特に印象的な場面が、「泥まんじゅう」 (図)である。

『ガラスの仮面』の奇矯なまでの面白さを考え直すにあたり、まず「泥まんじゅう」がなぜこれほど深い感動を誘うのか、探ることから始めたい。

理由の一つに、マヤが失くした自分を取り戻す、ストーリー上のクライマックスとしての位置づけがある。 「華やかな迷路」と題された章で、主人公の北島マヤはついに本格的に芸能界に参入する。慣れ親しんだ舞台と異なるテレビや映画の現場に疲弊するマヤ。付き人・乙部のりえが仕掛けたスキャンダルがトドメとなり、ついには演技の仕方を忘れてしまう。これを最後に演劇を止めると決めた舞台ですら共演者のいじめに遭い、舞台上で食べるはずだったまんじゅうは泥にすり替えられていた。しかし土壇場で目覚めた本能が命ずるまま、かつてのライバル・亜弓の目の前で、マヤは美味そうに泥まんじゅうを口にする……

例えば『あしたのジョー』で、力石を殺したショックから落ちぶれたジョーが、新たな好敵手・カーロスと戦うため、草拳闘のリングを後にする場面。あるいは 『みどりのマキバオー』 で、 師匠のチュウ兵衛を亡くし走れなくなったマキバオーが、再びレースへの情熱を取り戻す場面。スポ根マンガ史に残る名シーンと同様、 「泥まんじゅう」は強烈なショックで自分自身を見失った主人公が、自らの真のあり方を思い出すシーンである。応援していた主人公がどんどんダメになり、フラストレーションが溜まった果てに待つ、逆転のカタルシス。特に『ガラスの仮面』では、思いついた「キメ」を生かすため、美内が単行本5巻もの時間をかけマヤを「極限まで突き落とし」 (同インタビュー)た果ての上昇だから、その角度は強烈であり、読者をえぐる。

さらに、上記の物語が、様々な象徴を通じて一つのシーンに圧縮されていることも重要である。 「おらあトキだ!」というセリフは、かつてマヤが亜弓の才能に慄きながら『おんな河』に出演した際のセリフ「おらァたずだ…!」の反響に聞こえる。まんじゅうを食う動作は、その後亜弓と対等に渡り合った舞台『奇跡の人』で、彼女への対抗心を燃やしながら大福やたい焼きを食べる様子をトレースして見える。 上り調子だった頃のマヤが読者の記憶から蘇ってくる。無論、 演劇に戻ることが、 マヤにとって幸せかどうかは分からない。既にイメージは回復不能なほど低下しているし、似たような逆境がまた先に待っているだろう。しかし苦難を彼女は進んで選択する、ちょうど泥まんじゅうを喜んで食べるのと同じように。

こう考えると、 「泥まんじゅう」は、マヤが自己を再獲得するシーンだと理解できそうだ。だが実は、それでは片手落ちである。 「泥まんじゅう」は、徹底的な自己否定の表れでもある。 「おらあトキだ!」のセリフにもう一度注目してほしい。マヤは泥まんじゅうを口にするとき、私はマヤではなくトキなのだ、と自己暗示をかけている。マヤはマヤとしては泥まんじゅうを食えない。ここで泥まんじゅうを食っているのはマヤではなく、トキなのである。

『ガラスの仮面』について、裕福で幸せな家族に囲まれ、知性と美貌を備えた亜弓と、貧しく厳しい家庭に生まれ、日常生活では取り柄のないマヤという対比が、作品内外でしばしば語られる。マヤの恵まれなさは、 マヤが演劇に向かう動機になっている。といっても、『巨人の星』のように、単に反動として地位向上を目指すわけではない。 『若草物語』でビビに抜擢された彼女は、 「あたし自身はなんのとりえもないつまんない女の子だけど/演技しているときだけはちがう…/そのときだけはお姫さまにだってなれるかもしれないのよ…」と喜ぶ。マヤが演劇への情熱を燃やすシーンでは、しばしば激しい自己嫌悪と共に、同じロジックが現れる。芝居していれば、取るに足らないマヤは消え失せ、自分は価値ある何かになれる。だが、舞台の上でも別人になれるわけではない。別人を
演じるだけだ。 「舞台あらし」編で、マヤの演じた役に心奪われる共演者・真島が登場するが、彼の恋が虚しいなら、自己を追放した空虚を虚構で補填するマヤもまったく同様に虚しい。本作では演劇が虹に喩えられるが、千変万化の演技を七色になぞらえるとともに、マヤの生きる世界の不確かさも強調されている。

つまりマヤが役者として自己を確立していく過程は、マヤが幻を取り自己を否定する過程でもある。この悲劇性こそが、 『ガラスの仮面』の根本的なポイントである、 と断言してしまおう。もちろん、自己実現が自己否定に行き着く、 と抽象化すれば、 『あしたのジョー』と 『巨人の星』 の構造である。 梶原一騎的スポ根に演劇が接ぎ木され、虚構と現実の二項対立が導入されたことで、伝統的なテーマがより徹底化されたものと解釈できるだろう。マヤの「おらあトキだ!」という叫びは、 『ガラスの仮面』全体を貫く彼女の宿命的矛盾の結晶化である。ゆえにこそ読者の心を揺さぶるのだ。
  

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↑なぜこの画像を使っているかは文章全体から察してください



赤月みゅうとはエロ漫画出版社・ティーアイネットの主力作家の一人であり、2010年に出版された『イノセント』以来、同社で2016年までに七冊の単行本を出版している。
特に、エロ漫画としては珍しい上下巻構成の作品(エロ漫画単行本のほとんどは短編集として出版され、連作であっても一冊で完結することがほとんどである)として『美少女クラブ』を実現させていることからも、彼の実力と人気をうかがい知ることができるだろう。

彼はしばしば、同出版社の立花オミナと並び、ハーレムものの作家として語られる。確かに赤月の作品のほとんどは、多人数の女性によって一人の男性が性的に奉仕されるという構造を持つという点で一貫している。
しかしもう少し注意深く見てみると、まったく逆のベクトルでの一貫性も見えてくる。赤月みゅうとの作品は常に反=ハーレム的な作品でもあるのだ。本稿では彼の特異な作家性を、それが最も明快に現れている中編「祭子」(『少女×少女×少女』所収)を中心に、個々の作品に現れる具体的な描写を確認しつつ明らかにしたい。


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・壊すべきものとしてのハーレム



赤月の作品で単行本化されているハーレムものの作品のうち、『少女×少女×少女』から『美少女クラブ』に至る中期の作品群――列挙すれば、「祭子」「エンティエンヌ・ドゥ・シルエット」(以上『少女×少女×少女』(2011)所収)、『奴隷兎とアンソニー』(2012)、『美少女クラブ』(2013)――はすべて、まったく同じ終わり方をしているといってよい。
すなわち、1)ハーレムが崩壊する、2)ハッピーエンドである。

たとえば「祭子」は、自分のために作られたハーレムを終わらせるために、主人公の賢吾が自殺を試みる(が、無事助かる)ことで終わる。あるいは『美少女クラブ』もまた、主人公ハインツが「ガーデン」と呼ばれる未来の生殖用ハーレム施設を囲む壁を、文字通り破壊することによって終わる。どちらの作品でも結局、ハーレムの破壊によって、主人公は愛するヒロインと新しい未来を生きていくことができるようになる。


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↑『美少女クラブ』より。ハーレムが文字通り崩壊し、主人公とヒロインは新たな一歩を踏み出す


逆に言えばこれらの作品群では、ハーレムは崩壊すべき悪しきものとして提示されている、ということになる。赤月が反=ハーレム作家と呼ばれるべきなのはそれゆえだ。
ではなぜ、ハーレムは破壊されなければならないのか?

実は、赤月みゅうとの描くハーレムのあり方は、ほとんどどの作品でも共通する三つの特徴を持っている。そしてその特徴から、彼の作品においてハーレムがなぜ悪なのかを理解することができる。以下、「赤月流ハーレムの法則」を明らかにしよう。



・赤月流ハーレムの法則その1――ゾンビ化する美少女



一つ目の特徴は、とにかくセックスの相手になる女性が大量に登場するということだ。
ハーレムものである以上女の子がたくさん出てくるのは当然だろう、と思う向きもあろうが、赤月作品では、単にジャンルの定義だけでは説明しきれないほどの人数の女性が現れる。
「祭子」では終盤のページで確認できるだけで十七人、『美少女クラブ』では二十人以上の女性がハーレムに所属している。『奴隷兎とアンソニー』でも二桁以上の人数がセックスの相手方になる女性として登場する。短編の「エンティエンヌ・ドゥ・シルエット」ですら九人のヒロインが現れる。



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↑『美少女クラブ』第一話の扉絵より。この人数を見よ。正直、何度読んでもキャラクターの名前と顔が一致しない……




このように女性を大量に登場することによって、お話や絵が提示できる情報量の限界に対しキャラクターの数が完全に飽和してしまう。結果として、ストーリーに中心的にかかわる主要キャラクター数人を除き、ヒロインたちを設定やキャラクターデザインによって弁別し個別化することが難しくなっていく。いわばみな同じ顔・同じキャラに見えてくる。私は赤月の作品において、肉感的な美女が特に背景の説明なく次々現れ主人公と交わるとき、生者に群がる大量の個性なきゾンビたちを想像してしまう。悦楽が恐怖に転嫁するほどに、物量が過剰なのだ。



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↑「祭子」より。主人公に群がる美少女たちが、生者の肉に群がるゾンビのように見えてこないだろうか?



・赤月流ハーレムの法則その2――管理と支配



二つ目の特徴は、ハーレムがしばしば管理や支配によって成り立っているということである。
女性が自律的にハーレムを作り男性に奉仕しているというよりは、有形無形の力によって女性たちがハーレムを形成するように仕向けられ、維持させられている、という構造の作品ばかりなのだ。
支配の方法はひとつではない。「祭子」では、家父長的な父が娘たちを精神的に支配することでハーレムを作り出している。『美少女クラブ』や『奴隷兎とアンソニー』では、魔術的なアイテムや、暗示による洗脳支配といったよりファンタジックな道具立てによって、女性キャラは男性に奉仕させられる。だがどちらにせよ、女の子がハーレムに縛られているという点は同じだ。



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↑「祭子」より。父に怯える娘達。



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↑『奴隷兎とアンソニー』より。魔法のHアイテムで女の子を好き勝手にしてしまえ!



・赤月流ハーレムの法則その3――ズレた中心



そして三つ目の特徴として、ハーレムを作り・管理する存在が、ハーレムで奉仕の対象となり、読者の身体的感情移入対象ともなる男性キャラクターと別になっている。管理の中心と奉仕の中心がズレているわけだ。
「祭子」では主人公の父親、「エンティエンヌ・ドゥ・シルエット」ではシズクちゃんというバイセクシャルの女性、『奴隷兎とアンソニー』ではシャーロットという謎の女の子、『美少女クラブ』ではガーデン・ローズというメイドが、自分以外の男性に奉仕するためのハーレムを作り維持している。



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↑「祭子」より。父による娘達の監禁に抗議する主人公。


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↑「エンティエンヌ・ドゥ・シルエット」より。男性教師を神輿に担ぎあげてハーレムの構築を図るシズクちゃん(右下)。真の狙いはどさくさに紛れ気になるあの娘とエッチすること。



・人間性を奪うシステムとしてのハーレム



以上三点が赤月みゅうとの描くハーレムに共通する特徴である。これらの特徴は一体となり、ハーレムの悪、ハーレムによる人間の非人間化というモチーフを浮かび上がらせる。

ハーレムは管理と支配によって人間を制御するシステムである。システムの中に組み込まれた女性は自由意思を抑圧され、男性に奉仕するための存在となる。そこでは女性は交換可能な性具に過ぎず、一人の人間としての尊厳や個性は奪われてしまう。美少女の大量投入によるゾンビ化は、このことの表現として理解できる。
「祭子」のクライマックスで自由になった大量の少女たちを一コマに収めるとき、表情を一つ一つ丁寧に書き分けて見せる赤月みゅうとの手腕は見事というほかない。が、彼の真の巧妙さは、乱交シーンでは表情を比較的画一的に――ゾンビとして――描くことで、対比によってハーレムによる個性の簒奪を印象付けていることだ。



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↑「祭子」より。解放後の表情と、乱交シーンでの表情を比較して欲しい(クリックで拡大)。



さらにハーレムのシステムにおいて自由意思を奪われるのは女性だけではない。ハーレムを管理する中心と奉仕の中心である男性がズレている以上、男性もまた支配され、主体性を奪われた、女性とセックスするための機構に過ぎないのだ。
『美少女クラブ』のハインツは、ハーレム施設「ガーデン」の管理者ガーデン・ローズによって外界の情報を隠匿されている。「ガーデン」を囲む壁は、女たちだけでなく彼をも含めて閉じ込めるためのものだ。
「祭子」ではヒロインたちのみならず、賢吾もまた父に恐怖によって支配されている。ハーレムを崩壊させようとして自殺する際、彼は「これで"皆"自由だ」というセリフを発する。引用符は、自由になるのが少女たちだけではなく、自分も含めた"皆"であることを表現している。



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↑「祭子」より。主人公もまた父親に抑圧されている存在である



女性のみならず男性も含め、人間の自由意思、尊厳、個性を奪い、交換可能な性の歯車にしてしまうシステム――それが赤月みゅうとの描き続けるハーレムの正体だ。ゆえにこそハーレムは打開されなければならない悪なのだ。
深読みするならば、有象無象の女性キャラを性欲のはけ口としてのみ扱い、想像上で犯し続けるエロ漫画読者――彼自身もまた性欲に支配された本能の歯車でもある――を象徴していると見ることもできるかもしれない。



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↑『奴隷兎とアンソニー』より。ほとんど読者への説教である



・罪の自覚



赤月みゅうと作品においてはハーレムは悪であり、最後に崩壊することになる。ハーレムの崩壊の仕方においても赤月作品は共通する一つのパターンを示している。主人公の罪の自覚とともにハーレムが終焉する、という展開だ。
「祭子」では、ハーレムを作り出した父が、実は賢吾の妹たちに対する支配欲が作り出したもう一人の自分だったことが明らかとなる。そのことを知った主人公は、飛び降り自殺を試みることでハーレムを破壊しようとする。『奴隷兎とアンソニー』では、自分がかつてとある少女のことを無碍に扱っていたことを主人公・ヒロトが思い出す。記憶の彼方にあった罪を思い出し反省することで、ハーレムの終わりが告げられる。『美少女クラブ』のラストでは、ガーデン・ローズの「私は…たくさんの罪を犯しました…」というセリフを、主人公が「それなら…僕も同じだ…」と受け、ハーレムを囲む壁を破壊する最終コードを起動する。



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↑『奴隷兎とアンソニー』より。かつての罪を思い出した主人公は、魔法アイテムを使ったハーレム生活を止めることを決意する



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↑『美少女クラブ』より。そのものズバリ罪についての会話シーン。この後二人は「オール・エンド」を発動し、ガーデンを破壊する。



要するに赤月の作品では、ハーレムは、主人公がかつて犯した罪の象徴である(ハーレムが破壊されるべきもう一つの理由がここにある)※。ゆえに主人公が罪を自覚し反省することで、罪=ハーレムが消滅し、主人公と少女は人間性を取り戻す。


このドラマ上のクライマックスを見事に視覚化してみせるのが赤月みゅうと作品の最大の美点だと言ってよい。赤月のハーレム作品ではしばしば、ハーレムは空間的に局限されたものとして描かれる。「祭子」では父の住む屋敷に少女たちが監禁されている。『美少女クラブ』ではハーレム施設「ガーデン」は壁に囲まれている。「エンティエンヌ・ドゥ・シルエット」では乱交は決まって学校の美術室の中で行われる。
ハーレムが崩壊するクライマックスにおいて、主人公ないしヒロインたちは外へと出てゆく。特に決定的なシーンが、小さいコマを続けるタメを経て、大ゴマの中に描かれる。つまり、ハーレムによる支配/人間的な自由というドラマ上の対立が、内/外という物語内の空間的な対立、小さいコマによる圧縮/大ゴマによる解放という物語外の空間的対立に重ねられ、視覚化されているのだ。



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↑「祭子」のクライマックス。みんな一緒に外へ!先に引用した「”オール・エンド”!!」の大ゴマも同様の効果を持つコマだ。



・まとめと最近の作品



以上、赤月みゅうとのハーレム作品の、反=ハーレム的というべき一貫性を指摘してきた。
美少女のゾンビ化、管理と支配、ズレた中心、三つの特徴を持つ、人間を非人間化するシステムとしてのハーレム。そのハーレムが主人公の罪の自覚によって破壊される。赤月の中期作品はほぼすべて、『少女×少女×少女』において確立されたこのパターンをなぞることによって作られているといってよい。それぞれ別の作品を読んでいるというより、一つの作品のリメイクを読み続けているように思えるほどだ。複数の女性に奉仕される性的満足感を存分に表現しつつ、その中に執拗にハーレムへの倫理的批判を同居させ続ける、特異な自己否定的テーマを持つ作家であるといえよう。

では、中期に入らないハーレム作品――初期の「ご主人様とメイドール」(『イノセント』所収)、後期の『なつみつハーレム』、『リンガフランカ』など――はどうなのか、と問われるかもしれない。
これらの作品においては、ここまで述べてきた「赤月流ハーレムの法則」が部分的に現れながらも、部分的に裏切られており、個別の検討が必要である(特に『なつみつハーレム』は、一見能天気にハーレムの幸福感を謳いあげる作品でありながら所々病的なデティールが表れており、魅力的ないびつさを抱えている作品だ)。『リンガフランカ』については別の記事でレビューしているのでそちらを参照してほしい。他の作品については、稿を改めて検討したいと思う。


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『少女×少女×少女』については、ツイキャスエロマンガ夜話の第八回で詳しく語ったので、そちらも合わせて聞いていただけるとありがたい。

※ハーレムが主人公の罪の象徴であると同時に、ハーレムを管理する中心がしばしば主人公からズラされるというのは、一見矛盾して見える。だがこれはつまり、赤月の描く主人公が、自覚していない自分の罪に振り回される存在であるということに過ぎない。主人公の記憶や意識の中からは、彼の罪は失われている。そしてその隠れた罪によって、彼の自由意志は奪われる。赤月の作品において主人公の罪は、主人公自身の一部であると同時に、以上の二つの意味で主人公の心に対して外部にある。<外部化された自らの罪>というテーマを物語に表せば、主人公以外の中心が、主人公の罪を象徴するハーレムを運営するという赤月ハーレムの構造ができあがる。

2017年にティーアイネットから発行されたアシオミマサトの単行本『クライムガールズ』は、9月14日をずっとループし続ける男の話である。
むろん、猫も杓子もトムクルーズも時の輪の中を回り続けているこのテン年代において、いまさらループ物などと言われても驚きはない。むしろ今更感すら漂う。

だが、そのループを始めるトリガーが膣内射精だったらどうだろうか?
つまり、『クライムガールズ』は、エロ漫画でありながらループもの漫画なのだ。しかも、ループものであることとエロ漫画であることは、本作の中で単に並列されているのではない。『クライムガールズ』には、「エロ漫画×ループ漫画」という組み合わせによってのみ実現可能な美的達成(面白さ)がある。となれば、ゲーム的リアリズムを日々サヴァイヴする我々にも驚くべき理由はあるだろう。



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・あらすじ


『クライムガールズ』の主人公・ハルは、9月14日を何度も何度も繰り返している。
彼は繰り返される14日の中で必ず、ある女性の後ろめたい行為――犯罪や不倫――の現場に立ち会う。ハルはその現場を押さえ、女性を脅し、セックスに持ち込まなければならない。
そして無事、膣内射精に成功すると、彼は今のループから抜け出し、新たなループに突入する。次の9月14日が始まり、ハルはまた別の犯行現場に飛ばされ、新たな女性と出会う。いわば次のステージに進むわけだ。


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↑ループはセックスによって突破できる



なぜ自分はこんなループゲームに巻き込まれることになったのか。その謎を解き正常な時間に戻るため、ハルは次々に膣内射精を続けていく――以上が本作のあらすじである。

あまりにも馬鹿馬鹿しい設定なのでコメディのように聞こえるかもしれないが、本作はあくまでシリアスなSF作品として描かれている。例えば、膣内射精がループを抜けるトリガーであることにも後できちんと説明がつき、ある人物にとっての非常に切実な事情があったことがわかる。実用目的で手に取った読者も、だんだん本作の豊かなドラマ性に引き込まれていくことだろう。



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↑本作ではタイムリープの象徴として蝶が使われているが、これは映画『バタフライ・エフェクト』を暗示している。とある重要な展開がこの映画から引用されているのだ



・ループ設定の二つのポイント



では、冒頭で述べた「美的達成」について詳しく説明しよう。
あくまで私見に基づく仮説だが、ループ設定が漫画やアニメや映画の物語に対して持つポイントは、以下の二つに要約できる。


・再現性
・別様可能性



再現性とは、「初期設定が同じであるならば、同じことが起こり続ける」ということである。一方で別様可能性とは、「今起こっている出来事のあり方の背景には、別の様々な可能性が存在する(した)。この現実はその中の一つに過ぎない」という視点・感覚である。ループものにおいては、決められた時間の中で同じ出来事が起こり続ける。しかし主人公が初期設定に対して手を加えてやることで、出来事は上書きされ、毎回違った進展を見せていく。この「同じ」と「違い」のペアがループものの本質である。

ループものの傑作の多くは、この二点をうまくドラマの面白さにつなげている。
例えば『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(映画版)のトムクルーズは、ループし続ける世界のあり方や敵の動き方がいつも全く同じであることに気づき、それを暗記することで、「覚えゲー」で過酷な戦場を攻略する。これは再現性をうまく活かした例である。
一方で『まどマギ』のほむらの心は、別の世界で死んだまどかたちを重ねつつ、目の前のまどかを見なければならないことに悲鳴を上げている。まどか自身は他の世界で自分が辿った運命など思いもよらない――ほむらとまどかのこの視点の落差(別様可能性が見えているかどうか)が広がり埋まること、それが『まどマギ』という作品の感動の勘所だ。

では『クライムガールズ』はどうか?本作の面白さは、ループ設定の二つのポイントを、エロ漫画でしかできないような仕方で活かしていることにある。『クライムガールズ』においては、ループものとエロ漫画の組み合わせは必然的なものだ。


・再現性――女性を攻略する覚えゲー


エロ漫画に登場する男は、童貞だろうがショタだろうが、ほぼ必ず性的テクニシャンである(力任せのプレイが良い、というようなケースも含めて)。ほとんどの作品でヒロインたちは、男性キャラとのセックスから過剰なほど性的快感を得、深い絶頂を味わう。それはもちろん、感じる女性を見たい、あるいは女性を感じさせる優越感を味わいたい、という読者の欲望ゆえのご都合主義に過ぎない。

『クライムガールズ』の主人公もまた平凡な少年に過ぎないはずなのに、セックスに積極的でない女性であっても感じさせ、膣内射精まで持ち込んでしまう。しかし本作では、主人公の性的練達ぶりにはちゃんと説明がついている。それもループものでしかできない仕方で。
――何度も同じ相手とのセックスを繰り返すなかで、それぞれの女性の性的嗜好や、敏感な場所を学習し、次のループでそれを再現することで、自らのセックスを目の前の相手に最適化しているというわけだ。もはや読者がその虚構性を特に意識していない「エロ漫画のお約束」をわざわざ巧みに合理化する律義さは、コミカルであると同時に、確かにSF的な理屈付けの快楽ももたらしてくれる。


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↑性的嗜好の把握はもちろん、「アヤはここで射精してもあとで膣内射精させてくれる」など、プレイの展開も学習の対象になっている


・別様可能性――エロ漫画の様式性との組み合わせ



現実の背後に今まで/これからのループにおける別様可能性を見透かす相対性の視点は、論理的に言って、「いまの現実もまた、次のループでは消えてしまうかりそめのことに過ぎないかもしれない」という帰結を引き受けねばならない。それは解放感として捉えることもできる(『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でスター俳優トム・クルーズが何度も何度もくだらない理由で死ぬ爆笑のシークエンスは、ループ内での死が本当の死ではないからこそ可能になっている)。一方『クライムガールズ』はこの帰結を儚さとして解釈する。

ネタバレを防ぐために詳細を省くが、本作の終盤、ハルはループの謎を解き真実を知る。ループを終わらせるためには、主人公の大切なある人(以下Aと書く)をひどく不幸にしなければならない。Aはループを解消する前に、ハルと恋人として最後の一日を過ごすことを望む。もちろん24時間が過ぎ、元の時間に戻れば、Aとハルは恋人ではなかったことになり、さらにAにはつらい未来が待っている。それでも彼女はたった24時間の恋人ごっこを望み、ハルもそれを了承する。

このかりそめの24時間こそが本作のクライマックスである。最後の一日が始まってすぐ、ハルとAの前に、今までのループに登場した女性たちが再登場する2ページがある。前のループではハルとセックスしていた彼女たちは、このループでは単に通りすがりの他人だ。ハルとAの関係も同じように、一日過ぎれば書き変わってしまうのだろう。別様可能性を読者に印象付ける名シーンだ。



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↑「出会うはずだった女性たち」がハルの前を過ぎっていく



しかし今の文脈で重要なのは、ハルとAが過ごすかりそめの一日が、エロ漫画の――特に、ある特定のジャンルのエロ漫画の――非常に典型的な展開を忠実になぞるものとして描かれていることだ。いわば二人は、本作の外で、ほかのエロ漫画作品によって何度も何度も繰り返されてきたループする時間を再演しているのである。

その展開は、エロ漫画をある程度嗜んでいる読者にとっては、何度も何度も見てきた陳腐な様式でしかない(主人公のハルが、何度も何度も繰り返される9月14日にだんだんうんざりしていくように)。使い古されているだけでなく、非現実的な様式でもある。しかしその様式性、陳腐さ、虚構性こそが、かえってこのかりそめの一日の儚さを引き立て、そんな一見虚しい一日に思いを賭けたヒロインのいじらしさを強調する。つまりここでは、エロ漫画におけるいかにも非現実的で陳腐なストーリーの形式が、別様可能性に基づく儚さをより効果的に演出するために用いられているのだ。



・まとめとお尻



ここまで、『クライムガールズ』が、いかにエロ漫画でのみ可能な仕方でループ設定を消化しているかを説明してきた。だが『クライムガールズ』は、ストーリーや設定を気にせず単なるエロ漫画として読んでも十分実用性のある作品でもある。

アシオミマサトは女性の体の凸凹を線とトーンによって強調して表現することを得意とする作家である。
むろんこうした方法論は彼独特のものではなく、エロ漫画作家の一つの傾向・スタイルとして広く存在する。特に胴体の凹凸をしっかり描く作家は別に珍しくない(例えばすずはねすず、ぶるまにあん、ゼロの者、口リ作家のさらだなど。ただし、アシオミマサトがこの方法論を肉感の表現として用いているのに対して、さらだは体のスレンダーさ・貧相さの表現として利用している)。
しかしアシオミマサトのこだわりは、この方法論を特定の部位に特に情熱を持って適用している点に現れる。お尻である。本作でアシオミは女性の尻を描くとき、肉が余ってたるみ、尻肉の中、あるいは太ももとの境に段差を作る様をやたらと描く。このこだわり方は尋常ではない。しっかり肉ののったお尻を愛でたいという向きの読者(私を含む)にはヒットするだろう。


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↑お尻のたるみに注目!こだわりを感じる。



というわけで、本作『クライムガールズ』はエロさとストーリーの両輪が揃った、エロ漫画ファンにはおすすめの一冊である。

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