新野安と夜話のブログ

新野安がマンガやエロマンガについて文章を書いたりするブログ。Webラジオ「エロマンガ夜話」「OVA夜話」の過去ログ紹介も。

カテゴリ: 作品論

※これは2019/11/24に行われたイベント「第二十九回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、ひかけんが書いた記事のみを転載したものです。図に入った修正も文フリペーパー版のままになっております。

立体感のある華奢な身体に、陰影と体液が溶け合う独特の描写。爽やかな背景に明るい色彩で描かれる、怯えたような少女のイラスト。妙に能天気なタッチで、ハードな陵辱が展開される漫画。玉乃井ぺろめくりという個性的なペンネームの作家は、生み出す作品もまた個性的だ。本稿では、彼女の個性的な仕事の魅力について個人の感想ベースで語っていきたいと思う。

先日「エロ漫画家であることが家族にバレた」顛末のツイートがTwitterでバズり10万超えのリツイートをされた玉乃井は、二〇一六年冬のコミケ91から同人活動を開始し、商業ベースでは茜新社の「コミックLO」に二度掲載されたほか、コアマガジンの電子コミック誌「LQ」では二〇一七年刊の16号以降すべての表紙イラストを担当している。どちらもロリジャンルに特化した雑誌であり、玉乃井の作品も同ジャンルに集中している。


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図1:LQ 17号(コアマガジン)表紙

まずイラストについて見てみると、LQで玉乃井が担当した表紙はいずれも、全裸か全裸に近い格好の幼女が描かれている(図1)。それ自体は成人向け雑誌の表紙として珍しいことではないが、玉乃井が担当になる16号以前の同誌の表紙では、イラストに描かれるのはほとんどが無邪気な着衣の少女に統一されており、玉乃井の起用で大きく変化があったことがわかる。

かわいさ推しから扇情寄りに誌面の方向性が変わったのか? 作家陣の顔ぶれを見ても恐らくそうではない。そこには玉乃井の描く少女の、ある種の扇情性のなさが関わっているのではないかと思う。

誤解なきよう、玉乃井の描くロリ体型はエロい。肩ががっちりせず華奢で、胸の膨らみには途上感があり、肋骨を殊更に強調せずとも陰影で肉の薄さを強調する。責められて舌を出しているときの弛緩した表情も印象的だ。しかしLQの表紙で裸を見せる少女たちは(巻によって差はあるが)少し爽やかさを伴い、「コミックLO」の表紙絵を担当するたかみちとはまた違う意味で、少女のかわいさを思わせる。

なぜか? 先ほども述べたように玉乃井は肋骨を強調しない。ロリ体型描写には「ぷに」と「ガリ」という傾向があり、ガリ描写においては肋骨等のラインを強調して、丸みを帯びた二次性徴後の女性の身体とは違うロリ特有の未完成な身体を描き出すことがままある。だが玉乃井の描く少女の輪郭はより複雑で、補助的に実線を使いつつもトーンによる陰影で肉の薄さを描き出していて、小振りな胸部・乳首もその陰影の先にあり、自然な造形のもとに描かれている。そう、玉乃井は殊更にパーツを強調するのではなく、全体のバランスをとって女児の身体を描く。表紙はもちろんエロいのだが、まずその立体感ある体つきにエロさ以上の情報量を感じるために、なんなら不健全ではないのではないか……?などと脳がエラーを起こす。いやそれは言い過ぎだけれど、全裸イラストが表紙として映えているのはそんな均整の取れた幼児体型描写のなせる技なのである。


そんなクセになるイラストを描く玉乃井なのだが、漫画もかなり個性的なものになっている。商業と同人あわせて4短編が発表されているが、いずれもヒロインは身体の未発達な女子生徒であり、髪は肩まで行くかくらいの利発そうなキャラ造形になっている。そして無邪気な雰囲気と対照的に、輪姦を伴うハードな性交描写が含まれる。

まず特筆すべきはその不条理ともいえる世界観だ。短編「占い好きの女子は「イイことだけ信じる」って言いがち。」(コミックLO 二〇一九年二月号)は、駄菓子屋さんの占いで「とにかく みんなに 犯されて 困るね。」という紙を引いた少女・泉が、あらゆる周囲の男性から犯され続けて3年目の日常を描いた作品である。一種の「常識変化」ものであり、授業中の教室でも淡々とレイプされ続ける泉を誰も当然のこととして気にかけず、母親からは「セックスしてたら遅刻するよ」女友達からは「給食だから服着なよ」など会話が成立している。泉は快感を感じつつもそれに溺れるでもなく、「今日人数多いな」などとぼやきながら諦めて受け入れ、妊娠を予期させながらも変わらない日常が続く、という筋書きになっている。

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図2: コミックLO 2019年2月号 p.302(図1,2ともに掲載にあたり修正を追加した)

かなりハードなお話なのだが、ヒロインの泉のもともとの幼さが残っていて、作中でデフォルメした絵が挟まれることで妙な能天気さも出ている。特にラストでは、教師たちに散々犯された直後の泉ちゃんがうつ伏せになってリラックスしてお菓子を食べていたり(図2)と、そのギャップによってかえって短編全体の不条理さが浮き立っている。

ここで注目すべきはその「悪意のなさ」である。輪姦する男性たちの側に泉ちゃんへの恋心や私怨の類は一切なく、ただ義務のように毎日泉ちゃんを犯し続ける。列を作る男性たちの顔が描き込まれることはあっても行為中の男性はコマに入って表情を出すことはないし、誰が誰かも同定できないことがほとんどで、これは他の短編にもほぼ共通する。そこには犯人も復讐も悪意もなく、ただ無機質に酷い目に合う泉ちゃんの様子は、まるで世界に犯されているかのような感覚を与える。

そう、これは理不尽な目に合う少女に心を痛めたり、性のタブーを犯しながら自己を解放する少女を見つめたりするタイプのロリ漫画とはまるで違う。ただ日常に1点の歪みが生じて、誰もそれを気にせず利用せず、機能として犯される少女が発生する様子を描いているのだ。この短編は一番極端だが、同人誌「くれなちゃんのごほうびせっくす運動会」(二〇一八)も突然にレイプが始まりその場にいた男性陣が明確な悪意なくそれに加わって行く筋書きだし、「©生で学ぶ、正しいセックス講座」(二〇一九)は少女が特に理由なく性教育の教材にされるし、いずれも「理不尽に始まる悪意なきレイプ」が描かれている。商業デビュー作「放課後にはこういうコトもまれによくある」(コミックLO 二〇一七年一〇月号)は毛色が違ってレイプ描写はなく、児童たちの無邪気なセックスの様子が描かれるエモ寄りの作品だが、やはり打算や感情に起因しない性行為が描かれるところは共通している。


つらつらと書き連ねてきたが、立体感のある独特の少女作画と、物語のない陵辱シーンを含んだ筋書きで、ある種純粋なロリものを描く鬼才がぺろめくり先生である。これからもユニークな短編を描き綴ってくれますように。

※これは2019/11/24に行われたイベント「第二十九回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、新野安が書いた記事のみを転載したものです。

【『ガラスの仮面』論のためのノート】シリーズ、前回はこちらです。

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図:『ガラスの仮面』第5巻より、一人で舞台に立つ決意をするマヤ

今更ながら『アクタージュ』(単行本8巻まで)を読んだ。当たり前ながら面白い。特に『ガラスの仮面』ファンは読みながらニヤニヤしてしまうだろう。裏は取っていないが、作り手達が『ガラかめ』を研究したことはまず間違いない。今回は『アクタージュ』との比較を通じて、『ガラスの仮面』の特異性を語りたい。


『アクタージュ』の中には『ガラスの仮面』的な要素がたくさん存在する。女優ものであること、主人公の恵まれない家庭環境、主人公が演じることになっている「幻の作品」、etc.……。確かにその分、『ガラスの仮面』の面白さは『アクタージュ』に受け継がれている。

しかし『アクタージュ』は『ガラスの仮面』のコピーに堕していない。『アクタージュ』独自の魅力は、「良い演技」を描く上で、キャラクター同士のコミュニケーションにスポットライトを当てたことにある。

『アクタージュ』ではしばしば、演技中に回想シーンが挿入される。千世子が緻密に構築した自己イメージを纏う「天使」になったのは何故か。『銀河鉄道の夜』の舞台で阿良也がジョバンニの喜びと悲しみを体現できるのは何故か。キャラクターがなぜそう演技するかは、彼らの生い立ちを通じて説明される。だから演技は、演者の人生と一体のものだ。

同時に『アクタージュ』において、映画や演劇は集団芸術である。優れた役者は他人の演技を見ながら自分の演技を磨き、あるいは自分の演技で他人の演技を引き出す。千世子の客観性、阿良也の表現力を吸収し、主人公・景の演技は変化する。景の成長に刺激され、千世子は仮面の下に隠していた生の感情を露出し、七生も恩師・巌が死んだショックを振り切る。

そして、演技と人生が同じであるなら、互いの演技を理解し共に変化する過程は、互いの人生を理解し共に生きていく過程に他ならない。最初友達の居ない変人だった景は、女優の仕事を通じ、千世子やアキラと親友になっていく。

つまり『アクタージュ』では、良い映画・良い舞台を作り上げることは、チームとして成長することであり、同時にメンバーの人間関係を深めることでもあるのだ。

そのことに気づいた時、私は三つのことを思った。一つ目は、演劇という題材をうまく使って、今っぽい「関係性萌え」を詰めこんだマンガだなということ。実際、景と千世子はかなり百合百合しい。二つ目は、「いい話」だな、ということ。民主主義的というか、平等主義的というか、みんなで高め合って仲良くなろうというわけで、非常に道徳的な印象を持った。

そして三つ目は『ガラスの仮面』のことである。確かに『アクタージュ』はいい話だが、あくまで個人的な好みで言えば、私は『ガラかめ』とマヤの狂気の方を買う、と思ったのだ。


『ガラスの仮面』前半でこんなエピソードがある。ライバル劇団オンディーヌの差し金で、マヤが所属し月影千草が主催する劇団つきかげの中傷記事が週刊誌に載る。大打撃を受けた劇団つきかげはスポンサーから、演劇コンクールで入賞して汚名返上できなければ支援打ち切りという条件を突きつけられる。サスペンス劇「ジーナと5つの青いつぼ」を武器に、全国大会に臨むつきかげ。しかしマヤだけが特別扱いされることに不満を持った団員がオンディーヌに寝返り、マヤ以外の劇団員が上演時間に間に合わないよう工作する。誰もが諦める中、マヤは台本を無視し、たった一人の舞台を始める。マヤはアドリブで劇を成り立たせ、観客の圧倒的な支持を受ける。

ジーナがつぼを巡って次々危機に巻き込まれる劇中のサスペンスと、マヤがアドリブが破綻しかねない展開に何度も遭遇する現実のサスペンスを重ね、息つく暇なく読み切らせる。だがあえて深呼吸して考え直してほしい。これで本当によかったのだろうか?

月影が「紅天女」候補のマヤだけを特別視したのは週刊誌でも指摘され、彼女自身も認めるところだ。月影の暴走がこの事態を招いたのであれば、彼女も反省してしかるべきなのではないか。経験値の乏しさゆえ、周りを立てる余裕がなかったマヤにも問題というか、成長の余地はあったかもしれない。そう考えると裏切り者達にも同情したくなる。彼らが反省し演技に打ち込む展開を用意してやってもよかろう。何より、足止めをくらった善良な団員の立場がない。一丸となって危機を切り抜けるため頑張ってきたのだから、みんなで一緒に優勝させてあげたいではないか。

多分、『アクタージュ』ならそうなった。しかし『ガラスの仮面』では、おいしいところをマヤが全部持って行って終わる。いつでもマヤだけ中心になる構造こそ解決すべき問題だったはずなのに、そこは全く手付かずである。

いや、このエピソードでは、そしてきっと『ガラスの仮面』全体においても、そんなものは問題ではないのだ。マヤと周りの人々がどんな課題を抱え、どんな成長をするのかなど、すべて些事に過ぎない。重要なのはただマヤの圧倒的な才能と情熱なのである。何のプランも示さず舞台に出ていくマヤを前に、月影やスタッフは狼狽える。二人目以降が登場しない異様な演出に、客は青い顔で慄く。それでも舞台のマヤは平気な顔で、壊れ切った舞台を力技で繋いでいく。狂気の天才が起こす奇跡を前に、凡人であるスタッフ・観客・読者にできるのは、黙ってひれ伏すことだけだ。「いい話」を投げ捨てた、ほとんど怪獣映画のようなこのエリート主義こそ、『ガラスの仮面』が読むものを圧倒する理由なのではないか。


ただし、怪獣たる資格をもつのはマヤだけではない。というわけで、(気が変わらなかったら)次回はマヤのライバル・亜弓の話をすることにしよう。

この記事は、serial experiments lain Advent Calender 2018(https://adventar.org/calendars/3510)の24日目です。




『serial experiments lain』20周年。賑やかだったメモリアルイヤーも終わりまであと一週間だ(注1)。『lain』は私のフェイバリット・アニメであり、だから『lain』について何か書きたい、いや書かなければ、と漠然たる義務感を今年一年感じてきた。好きだからこそきちんと準備した文章にしたい、だがそのための作業をする暇もなく、結局何もせず年の瀬を迎えてしまった。もう四の五の言っていられない。メモ書き程度の内容でも、何もしないよりマシだろう。



『lain』は一応、多くの人に「重要作」と認識されていると思う。だが、「電波」「怪作」という形容を同時に受けるように、決して誰もがすんなり楽しめるアニメではない。結論を先延ばしするストーリー、象徴的意味どころか文字通りの理解さえ難しい奇妙な描写。それでもめげずに私が『lain』を見切りラストに感動することができたのは、毎回冒頭に流れるOPが実にカッコよく魅力的だったからだ。中でも私がやられたのは、(オンエア版のOPでは一部カットされている)最後の歩道橋の部分である。



歩道橋を上がる玲音。最上部を歩いている彼女に風が吹き、帽子が飛ばされる。おそらくその風の発生源である烏が玲音のすぐ近くを過り、カメラの手前へ飛んでいく。モノクロになる画面、ストップモーション。


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その後、色調は戻り、玲音の表情にアップ。彼女の顔にかかる烏の影は微動だにしない。玲音は歩道橋を歩いていく。彼女の背後で飛ばされた帽子が空中に静止している。


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この一連の映像には、『lain』本編のエッセンスが込められている。といっても、歩道橋が最終回の重要なシーンで現れるから、という話ではない。決定的な別離を経たありすと玲音の、再会と言えるかどうかもわからない曖昧な邂逅は、確かに同じ歩道橋で起こっていた。だが、仮に『lain』を初めて見る人でも、OPの歩道橋で何かしらの切なさを感じるだろうし、『lain』を見進めていくにつれ、その切なさを『lain』らしいと感じるのではないか。少なくとも私はそうだった。つまり単に似た背景が本編のシーンを思い出させて心を揺さぶる、だけではない。


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ではどういう意味でこのシーンが『lain』的であると言えるのか。それを説明するには、展開されている表現的な実験を解きほぐさねばならない。まず歩道橋の場面で驚くべきことは、玲音が視聴者と同じ、静止した世界を体験しているように見える点だ。


映える象徴的な画面を強調するために、画面を止める。ごく普通の映像テクニックであるストップモーションは、視聴者や監督が住む、画面のこちら側で生起する事態である。例えば『ドラゴン怒りの鉄拳』は、銃を構える敵との絶望的な戦いに挑むブルース・リーが飛び上がったストップモーションで終わるが、ここでブルース・リーが怒りのあまり超能力に覚醒し空中で静止したと思うものは、映画の基本的な見方を理解していない。画面の向こう側の世界では対応する静止はなく、ごく普通にブルース・リーが飛び上がり落ちる。止まったのはあくまでブルース・リーが映った映画の画面である。作品内世界から一瞬だけを切り出し、作品外世界の画面でそれを描き画面を止める、そういう事態がストップモーションであると整理できる。


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ところが、『lain』のOPではそうなっていない。ストップモーションの後映るのは、空中に静止した烏と帽子、平然と歩道橋を歩く玲音(注2)。動くことのできる玲音には、烏も止まって見えているはずだ。さっき視聴者がストップモーションで見ていたように。つまり、玲音は、視聴者にとってのみ存在するはずのストップモーションを体験している。画面の向こう側にいるはずの玲音は、画面のこちら側での演出的静止を認識している。繰り返すが、作品内の時間ではなにも止まっていない。何かが止まっているとすれば、現実の時間に対してである。従って、作品内の時間ではなく、現実の時間の中で、玲音は生きている。


では、歩道橋のシーンで玲音はアニメを飛び出し視聴者の世界にやってきたのか。例えば最終話で玲音が視聴者に向け話しかける、いわゆる「第四の壁」破りと同じ種類の事態とみて良いのだろうか。そう言い切ってしまうと、このシーンの重要な情感が切り落とされてしまう。端的に言えば、玲音はもっと寂しく見える。歩道橋のシーンのもう一つの仕掛けに注意するとその理由がわかってくる。



確かに「玲音が止まった世界で動いていること」も奇妙だ。だがそもそもこの「止まった世界」自体が変ではないか。くどいようだが、ストップモーションは映像作品の画面が止まることである。本来ストップモーションの画面は動いている作品内世界の一瞬を切り取ったものである。止まっているのは現実の二次元的な画面であり、動いているのは作品内の三次元的な世界である。ところが歩道橋のシーンでは、ストップモーションの前に風で飛ばされた帽子が飛ばされた途中の位置で静止し、多数のアングルから映されている。従って、ストップモーション以前から継承された作品内の三次元的空間で帽子は静止している。よって、ストップモーションが起こっている画面外の現実と、演出など無関係に前のシーンから人物や物体が生息していた作品内世界という、全く異なる二つの世界のうち、前者の時間と後者の空間を掛け合わせた時空が開けていることになる。この、どこにも存在しないはずの奇怪なキメラ世界自体が、この場面でもうひとつ驚くべき点である。



第四の壁を破って玲音がこちらに話しかけてくるとき、我々は玲音と、玲音は我々と繋がっている、と感じられる。ブラウン管の中にいる玲音が、ガラスを隔てて、こちらを見ている。アニメを見ている私に、今、玲音が話しかけている。会話によるコミュニケーションの前提として、時空を共有するという根源的な繋がりがそこにある。だがOPで歩道橋を歩く玲音は違う。我々の手に届かない作品内の歩道橋を歩いている。だから彼女には止まった烏は見えても我々は見えない。我々と玲音は異なる空間に隔てられている。そして彼女は自分が元いたはずの作品内世界とも交流できない。飛ばされた帽子を玲音は拾わずに歩き去るが、きっとそれは帽子が飛ばされたとか拾うとかいったことが成立しない、演出の論理によって絶対に対象が動かないストップモーションに自分がたった今入り込んだと知っているからだ。周囲と玲音は異なる時間に隔てられている。つまりここで描かれるのは、複数のリアリティを行き来することができる玲音が、結果どことも断絶した狭間でひとり迷子になる様子だ。



『lain』はそもそもそういう物語だった。ワイヤードと現実を行き来することができるがゆえに、ワイヤードにも現実にも居場所を見つけきれない。どこにでもいられるがゆえにどこにもいられない。第四の壁を超えて我々と時空を共有できても、結局砂嵐の中にすぐ飲み込まれてしまう。歩道橋の上でちょっと憂鬱そうにとぼとぼと歩く玲音から目が離せないのは、我々がそこに、作品全体で彼女が背負うことになる孤独を見て取らざるをえないからなのである。
 


注1:「2018年」をメモリアルイヤーと考えるのではなく、アニメ放送開始(1998年7月)を基準にすれば、来年の途中まで続くことになるが。
注2:静と動の対比を描くにあたり、スクランブル交差点のような動きが溢れる場所を選ばなかったのが正しい。「静止」できるのは、「動いているはず」のものである。ずっと動いていない富士山は「止まる」ことができない。だから動きの溢れる場所でこの仕掛けを展開すれば、画面に「静止」が溢れることになる。だが閑散とした歩道橋の上で、歩く玲音と比較されるのは小さな烏と帽子だけだ。情報量を削ぐクールさ。「静止」と「動作」を限られた対象に凝縮して担わせることで、画面上で対比の緊張感が高まる。


※これは2018/11/25に行われたイベント「第二十七回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、ひかけんが書いた記事のみを転載したものです。ペーパーのPDF版はこちら。

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今月号(二〇一八年十一月刊)から、エロマンガ雑誌『コミックアンリアル』の表紙絵師が変わった。アンリアルといえば、モグダンの描く乳首の透けた爆乳人外女性の表紙絵を連想する人も多いと思う。創刊から
12年間、75冊の表紙絵を一貫して担当していたモグダンだが、前号のあとがきにて「今回でアンリアルの表紙は最後です」ときっぱり書いているので世代交代ということだろう(ありがとうございました) 。

さて今号の表紙は佐藤空気が担当した(図) 。それこそ村田蓮爾以降の「快楽天」方式で、 表紙絵は持ち回りになるかもしれないが、今号は佐藤空気の連載「愛聖天使ラブメアリー」の最終回掲載ということもあって、ヒロインの朝比奈あかり(サキュメアリップ)が表紙担当になっている。

「愛聖天使ラブメアリー」は、二〇一七年七月刊から全九話で連載された、コミックアンリアルにほぼ毎号載っている「魔法少女に変身して戦うも、魔物に捕らわれてエロいことをされる」タイプの物語だ。ただ、このマンガには戦闘シーンがほぼない。全部で三人の魔法少女が登場するが、いきなりラスボスの堕邪神エルゼアムと対峙するため、みんな敵を倒すどころか攻撃モーションすら見せないままに拘束され、 ラスボスに調教され記憶を消され、 のローテーションの中で堕とされていくのがお決まりのパターンになっている。メインヒロインの朝比奈あかりはとても強い魔力を授かったのだが場馴れしておらず、封印されていたラスボスの完全復活のためにその魔力を利用され、途中悪堕ちして他の二人の洗脳調教に加担するようになる。

「ラブメアリー」について何を特に語りたいかというと、ヒロインの一人・真尋ゆづきが男の子であるということ。そして、悪堕ちして女の子になるという展開についてだ。

ゆづきもお決まりの展開で敵方にとらわれて、まず男性としての機能を利用される。魔力を持ったゆづきの精液にエルゼアムが瘴気を吹き込み、それをあかりの体内で射精させることで、防御力の高いあかりを悪堕ちさせようというのだ。ここであかりが強烈な快楽の果てに悪堕ちするのに対し、ゆづきは快楽に翻弄されるものの悪堕ちには至らない。役目を果たしたゆづきへ何故か触手アナル責めが始まるところで第五話が終わる。

第六話でゆづきはラスト、引きの一コマまで登場しない。一話分登場しない間も調教を受け続けているというこの設定が、連作というフォーマットを上手く生かしている。第七話は一話まるまる
20ページをかけてじわじわとゆづきを女体化するという趣向になっていて、男性器が縮み、乳房が形成され、髪が伸び……といった描写がじっくりと描かれる。それでも正気を保ち続けたゆづきに、悪堕ちしたあかりは自らの受けてきた快楽をゆづきに追体験させ、堰が切れたかのようにゆづきが自ら「女の子にしてくださいぃっ」と叫ぶと、全身を瘴気につつまれたゆづきが妖艶な美少女になって表れる。

マンガに限らず男性向けエロコンテンツにおいて、 「そもそも肉体的なレベルで、女性が感じる快楽は男性より(遥かに)強い」という物語上の信仰が現れることがある(それを読者や作者が現実に信じているかはともかく) 。例えばレイプモノで「感じてしまう」といった描写はフィクションに過ぎないのだが、読んでいる間だけそれを真に受ける雑なエクスキューズとして、この信仰が機能することがあるだろう。アンリアルが得意とする女体化モノの作品もこの前提が重要で、男性読者から見て得ることのできない快楽への希求がエロさの推進力となっている部分はある。

「そうか、責められ続けた末にひとは女の子になってしまうのか」(ファンタジーです)……という感慨があったのは、ラストでゆづきもエルゼアムの子を産む存在になる、という物語上の要請ももちろんある一方で、あかりの快楽を追体験することが堕ちのトリガーになるという描写に 「女性の快楽への信仰」 の強さを感じたからだ。第八話後編(最終話)であまり「元男性」という設定が生かされず、なぜか単純に男性器が再び生えてきたりしていたのが少し残念だったのだが、第七話の丁寧な堕ち過程は全編を見ても見応えのある描写だったので、来年発売の単行本ではぜひ注目していただきたい。

ここまでまったく触れていない三人目のヒロイン・真尋ゆり(ゆづきの妹)が終盤で悪堕ちするスピード感は潔いほどなので(台詞回しもギャグにふっている感がある) 、最後は単純にページ数が詰まってしまったのかもしれない。それだけゆづきの堕ち描写に力を割いていただいたということで、女体化モノウォッチャーとしてはありがたい限りでした。
  

※これは2018/11/25に行われたイベント「第二十七回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、新野安が書いた記事のみを転載したものです。ペーパーのPDF版はこちら。

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『ガラスの仮面』文庫版 10 巻 p.310

美内すずえは執筆の際、集中力を高めてまず中心的イメージを閃き、そこから逆算してプロットを組み立てていくのだという( 『ガラスの仮面展』公式ビジュアルブック、美内すずえロングインタビュー) 。 『ガラスの仮面』における数々の名シーンは、 「キメ」を重視する彼女の姿勢から生まれたものだ。中でも特に印象的な場面が、「泥まんじゅう」 (図)である。

『ガラスの仮面』の奇矯なまでの面白さを考え直すにあたり、まず「泥まんじゅう」がなぜこれほど深い感動を誘うのか、探ることから始めたい。

理由の一つに、マヤが失くした自分を取り戻す、ストーリー上のクライマックスとしての位置づけがある。 「華やかな迷路」と題された章で、主人公の北島マヤはついに本格的に芸能界に参入する。慣れ親しんだ舞台と異なるテレビや映画の現場に疲弊するマヤ。付き人・乙部のりえが仕掛けたスキャンダルがトドメとなり、ついには演技の仕方を忘れてしまう。これを最後に演劇を止めると決めた舞台ですら共演者のいじめに遭い、舞台上で食べるはずだったまんじゅうは泥にすり替えられていた。しかし土壇場で目覚めた本能が命ずるまま、かつてのライバル・亜弓の目の前で、マヤは美味そうに泥まんじゅうを口にする……

例えば『あしたのジョー』で、力石を殺したショックから落ちぶれたジョーが、新たな好敵手・カーロスと戦うため、草拳闘のリングを後にする場面。あるいは 『みどりのマキバオー』 で、 師匠のチュウ兵衛を亡くし走れなくなったマキバオーが、再びレースへの情熱を取り戻す場面。スポ根マンガ史に残る名シーンと同様、 「泥まんじゅう」は強烈なショックで自分自身を見失った主人公が、自らの真のあり方を思い出すシーンである。応援していた主人公がどんどんダメになり、フラストレーションが溜まった果てに待つ、逆転のカタルシス。特に『ガラスの仮面』では、思いついた「キメ」を生かすため、美内が単行本5巻もの時間をかけマヤを「極限まで突き落とし」 (同インタビュー)た果ての上昇だから、その角度は強烈であり、読者をえぐる。

さらに、上記の物語が、様々な象徴を通じて一つのシーンに圧縮されていることも重要である。 「おらあトキだ!」というセリフは、かつてマヤが亜弓の才能に慄きながら『おんな河』に出演した際のセリフ「おらァたずだ…!」の反響に聞こえる。まんじゅうを食う動作は、その後亜弓と対等に渡り合った舞台『奇跡の人』で、彼女への対抗心を燃やしながら大福やたい焼きを食べる様子をトレースして見える。 上り調子だった頃のマヤが読者の記憶から蘇ってくる。無論、 演劇に戻ることが、 マヤにとって幸せかどうかは分からない。既にイメージは回復不能なほど低下しているし、似たような逆境がまた先に待っているだろう。しかし苦難を彼女は進んで選択する、ちょうど泥まんじゅうを喜んで食べるのと同じように。

こう考えると、 「泥まんじゅう」は、マヤが自己を再獲得するシーンだと理解できそうだ。だが実は、それでは片手落ちである。 「泥まんじゅう」は、徹底的な自己否定の表れでもある。 「おらあトキだ!」のセリフにもう一度注目してほしい。マヤは泥まんじゅうを口にするとき、私はマヤではなくトキなのだ、と自己暗示をかけている。マヤはマヤとしては泥まんじゅうを食えない。ここで泥まんじゅうを食っているのはマヤではなく、トキなのである。

『ガラスの仮面』について、裕福で幸せな家族に囲まれ、知性と美貌を備えた亜弓と、貧しく厳しい家庭に生まれ、日常生活では取り柄のないマヤという対比が、作品内外でしばしば語られる。マヤの恵まれなさは、 マヤが演劇に向かう動機になっている。といっても、『巨人の星』のように、単に反動として地位向上を目指すわけではない。 『若草物語』でビビに抜擢された彼女は、 「あたし自身はなんのとりえもないつまんない女の子だけど/演技しているときだけはちがう…/そのときだけはお姫さまにだってなれるかもしれないのよ…」と喜ぶ。マヤが演劇への情熱を燃やすシーンでは、しばしば激しい自己嫌悪と共に、同じロジックが現れる。芝居していれば、取るに足らないマヤは消え失せ、自分は価値ある何かになれる。だが、舞台の上でも別人になれるわけではない。別人を
演じるだけだ。 「舞台あらし」編で、マヤの演じた役に心奪われる共演者・真島が登場するが、彼の恋が虚しいなら、自己を追放した空虚を虚構で補填するマヤもまったく同様に虚しい。本作では演劇が虹に喩えられるが、千変万化の演技を七色になぞらえるとともに、マヤの生きる世界の不確かさも強調されている。

つまりマヤが役者として自己を確立していく過程は、マヤが幻を取り自己を否定する過程でもある。この悲劇性こそが、 『ガラスの仮面』の根本的なポイントである、 と断言してしまおう。もちろん、自己実現が自己否定に行き着く、 と抽象化すれば、 『あしたのジョー』と 『巨人の星』 の構造である。 梶原一騎的スポ根に演劇が接ぎ木され、虚構と現実の二項対立が導入されたことで、伝統的なテーマがより徹底化されたものと解釈できるだろう。マヤの「おらあトキだ!」という叫びは、 『ガラスの仮面』全体を貫く彼女の宿命的矛盾の結晶化である。ゆえにこそ読者の心を揺さぶるのだ。
  

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