昨日、マンガ家・三浦健太郎の訃報が伝えられた。享年54歳だった。89年から連載され、単行本40巻を数えていた彼の代表作『ベルセルク』は、これで未完となった。

私も『ベルセルク』ファンの1人であり(といっても、つい先日全巻一気読みしたばかりのにわかではあるが)、だからこの訃報は大変に悲しかった。ライターの端くれとして、追悼記事を書いてみたいと思った。

ただ、『ベルセルク』はあまりにも有名なマンガであり、既にその偉大さは語り尽くされている。特に、日本のダーク・ファンタジーにおいて『ベルセルク』がどれだけ画期的なものだったかについては、この訃報を受けて、Twitter等で様々に言及されている。今更私が付け加えることはない。

私はエロマンガ・ライターだ。だから、今回は私なりの三浦氏追悼として、「エロマンガとしての『ベルセルク』」について少し書き記してみたい。天国の三浦氏が私の読み方を気に入ってくれるかはわからないが、たぶん追悼というのはどこまで行っても一方通行のものだろう。

エロマンガ史と『ベルセルク』

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『ベルセルク』は、巨大な剣を背負った戦士・ガッツが、魔に堕ちたかつての親友・グリフィスを追撃する冒険を描いた、ファンタジー・バトルマンガである。このように要約するとどこがどうエロマンガなのかわからないかと思う。が、本作においてはそのダーク&ハードな世界観を際立てる要素として、エロ・グロが積極的に導入されており、セックスシーンも少なくない。

そしてエログロマンガとしての『ベルセルク』は、実は現代のエロマンガの歴史を辿る上で無視できない存在感を持っている。例えば、乳揺れの際に乳首が残像を描く表現、「乳首残像」の歴史を辿っていくと、『ベルセルク』が登場人物として現れてくる。稀見理都『エロマンガ表現史』によると、この表現は奥浩哉とうたたねひろゆきによって88年頃発明され、しばらく潜伏期間を経て、93年頃にエロマンガで使用され始める。稀見は『ベルセルク』94年の連載回、シャルロットとグリフィスのセックスで、乳首残像が使用されていることに注意を促す。時期的にかなり早いものであることに加え、90年代に青年マンガで乳首残像が使われた唯一の例であるからだ。

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また、エロマンガ作家に与えた影響も見逃せない。例えば、同人誌『豊穣の隷属エルフ』シリーズで人気を集めているねろましん、そして現代最高のエロマンガ作家と言って差し支えないだろう新堂エルが、『ベルセルク』からの影響を口にしている。ねろましんも新堂エルも、目を背けたくなるほどの人体改造や堕落を絵に起こしてきた、まさしく「暗黒」のエロマンガ作家であり、その世界観の根底に『ベルセルク』が横たわっているということだ。

変身

女性を道具として犯す暴力性

では、歴史的観点を脇に置いて、単独の作品として見たとき、『ベルセルク』のエロさがどこにあるのか。それを説明するために、個人的な独断と偏見から、『ベルセルク』の三大エロシーンを挙げてみたい。一つ目は、先にも言及した、9巻でグリフィスがシャルロットを犯すシーン。二つ目は、13巻、ガッツの目の前で恋人のキャスカをグリフィスが犯すNTRシーン。そして私が特にお気に入りなのが、27巻に登場する、敵国の女の子宮で魔物を生産する「魔子宮」だ。

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↑キャスカNTRシーン


この三つのシーンには共通点がある。それは、女性を性的に欲望するとか、まして女性を愛するといったことは二の次になっていて、なにか関係のない目的のために女性とその生殖器が道具として利用されている、という点である。

グリフィスがシャルロットを犯すシーンも、あるいはキャスカを犯すシーンも、実はグリフィスは目の前の女ではなく、ずっとガッツを想っている。自分を捨てた親友に対する当て付けのために、騎士として守るべきはずの姫・シャルロットを犯し、自らの身を滅ぼす。ガッツを苦しませるために、彼の目の前で恋人のキャスカを絶頂させる。グリフィスはシャルロットもキャスカも愛していない。強いて言えばガッツしか愛していなかったのであり(ベルセルクはBL要素も色濃い)、その思いの表現のために、シャルロットもキャスカも弄ばれたのだ。

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↑シャルロットを犯しながら、グリフィスの頭にはガッツの姿が去来する

魔子宮のシーンも同じだ。「魔子宮」とは、多数の魔物をつなげて作られた瘴気の壺である。この中にあらかじめ孕ませた女を投げ込むと、子宮に瘴気が浸透し、胎児は魔に憑かれ、母親の腹を食いやぶって誕生する。作中でグリフィスと敵対するクシャーン帝国は、占領した国の女たちを犯して孕ませた後、この魔子宮に次々と投げ込むことで、無敗の魔物軍団を生産している。やはりここでも、女たちは狭義の性的欲望のために望まれるのではなく、ただ魔物の生産工場を腹に備え付けた資源として収奪される

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↑魔子宮

そして「魔子宮」のシーンはもうひとつ、「生命の神秘」が技術で蹂躙されているという意味でも、人の神経を逆撫でする。物理の枠を超えた存在としての魔物。まだ意志も責任能力も持たぬ胎児。その胎児を無から生み出す子宮。こうしたものについて我々は、人間の能力を超えた世界として考える。現世的な利益によって犯すべからざる「聖域」としてのイメージを抱く。「魔子宮」はその宗教的信念を蹂躙する。人間的な技術によって、魔物は切り貼りされ、子宮は汚染され、胎児は生まれる前に人外へ変えられる。

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人間を人間として愛する。聖なるものを尊重する。我々の考える「犯すべからざる尊厳」を、『ベルセルク』は平気で踏みにじる。そこにある暴力性、サディステック/マゾヒスティックな快感こそ、『ベルセルク』が狭義のエロマンガを遥かに超えて提示し得たエロさだと私は思うし、だからこそエロマンガ家にも影響を与えたのではないだろうか。

もちろん、『ベルセルク』は、そうした暴力の渦からいかに抜け出すことができるかというテーマを展開してもいた(特に最近)。ただそれにしても、暴力の圧倒的魅力を前提にしていたからこそ、綺麗事にならずに済んだのではないだろうか。だからもしあなたが、『ベルセルク』をエロマンガでないものとして読もうとしたとしても、まずは『ベルセルク』における暴力のエロさに耽溺してみなければならないのだ