毎週金曜日更新のエロマンガ時評、今回は荒井啓の新刊『群青群像』を扱う。ただ、今プライベートも執筆仕事もあまりにも忙しいもんで、ちょっと急いで書いている。文章の荒れとかはご勘弁ください。

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なぜエロマンガのカメラポジションは近いのか?

先日こんなツイートがバズっていた。




マンガにおいてカメラ位置を意識することの重要性を説いた内容だ。これを受けて、エロマンガ研究者の稀見理都さんが次のように発言していた。




私も同じ実感を持つ。ではなぜエロマンガでカメラ位置が近くなりがちかというと、少なくとも次の二つは原因としてあるのではないかと思う。

まず、エロマンガは基本的には密着した2人のセックスを描くことが多い。この場合、セックスしている2人を捉えた中距離のショット、および表情やフェチパーツを抜いたクローズアップだけで、場面描写には事足りる。むしろ無意味に遠景ショットを入れた方がわかりにくい。

そしてもう一つ、エロマンガのセックスは多くの場合読者がキャラクターと共に感情を高めていくことを狙って描かれている。クローズアップは、読者をキャラクターに感情移入させ、共感を喚起する効果を持つ。一方で遠景のショットは読者を場面に対して客観的な視点に置く効果を持つ。場合によっては、読者をセックスに対して冷めさせるような効果を発揮してしまうことになる。

もちろん、だからエロマンガは単調なんだとかそういう話ではない。エロマンガというジャンルにおいて、大抵のケースで効果を発揮するカメラポジションが、近目になるという話だ。


荒井啓の見せる遠景ショットの妙

しかしだからこそ、アクセントとしてうまく使われた遠景ショットは、特別な光を放つ。そして、そういうカメラポジションの置き方ができる作家は、他にない力を持つ。荒井啓もそんな作家のひとりだ。本単行本の冒頭に収録された「僕は彼女の名前も知らない」の中での、遠景ショットの使われ方を紹介したい。

本作のヒロインはとても貧乏であるため、通う学校で生徒相手に売春まがいのことをやっている。が、特に自分の境遇を嘆くでもなく、きっちり稼いでやろうじゃん!というスタンスであるである(そう見える)。無口で内気な主人公は、そんな彼女に押し切られて、セックスの見張り役をやっている。

本作のセックスでも基本になるカメラポジションは、表情のアップや、くんずほつれつを捉えた中距離のショットだ。

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が、このなかに時折、遠目のショットが混ぜられる (引用画像の一コマ目に映るメガネの男が主人公) 。

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この遠目のショットは何を表現しているのかといえば、もちろん主人公から見たヒロインの姿を表現しているのである。主人公はヒロインのセックスに対して、まったく傍観者の立場にある。目の前で美少女のセックスが繰り広げられているのに、いつも彼は何の感情ももたず、ぼーっとしている。いや、本当は彼も彼なりにいろんなことを考えていたことがこの後わかっていくのだが、そのひっくり返しこそが後半の面白さ・エロさの焦点なので、この時点では彼の目線は純粋な客観者であるかのように描かれなければならない。だからこその遠景ショットなのだ。

付言しておくと、カメラの距離のみならずアングルもまた、このショットを客観的なものとして差別化するために一役買っている。セックスの最中のコマでは、パースのあるダイナミックな構図だったり、ヒロインを下から撮ったりと、凝ったカメラワークで読者の気持ちを盛り立てている(ノスタルジックな鉛筆線を使いながら、難しいアングルを次々狂いなく描いていくギャップが激萌えである)。一方で遠景ショットは、横から漫然と、ただ人を撮りました、という画面だ。もちろんこれは、あえて色のないアングルを選んでいるはずだ。それによってショットの客観性を強調しているのである。

というわけで、エロマンガにおいても、いやエロマンガにおいてこそ、遠いカメラポジションは重要な意味を持つ。本作が面白いのも、荒井啓が非凡な作家なのも、そこに理由の一端がある