新野安と夜話のブログ

新野安がマンガやエロマンガについて文章を書いたりするブログ。Webラジオ「エロマンガ夜話」「OVA夜話」の過去ログ紹介も。

2021年02月

毎週金曜日更新のエロマンガ時評企画。今回はサークル我流痴帯(作家:TANA)の新刊『欲と欲』を取り上げる。言わずと知れた対魔忍シリーズを題材に、このサークルが書き継いできた8Pの会場限定本を、一冊にまとめた総集編である。

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誇り高き肉奴隷たち

みんな大好き対魔忍シリーズ。強く凛々しい忍者ヒロインたちがメタメタに調教され、快楽に溺れる淫乱と化す。敵だったはずの男に自分の人生を捧げ、惨めな肉奴隷に堕落させられる、そういう作品である。

しかし、長らく調教ジャンルを愛好していて私はよく考えるのだが、「快楽に溺れる淫乱と化す」ことと、「自分の人生を男に捧げる肉奴隷になる」ことは、実は別のことではないか

もちろん、それまで世間的な道徳に従って生きてきたヒロインが、調教役の介入によって自分の価値観を改造されセックス好きと化すのは、それ自体ある意味で自分の人生を他人に明け渡すことではある。しかし見方によっては、外部からの刺激によって、新しい自分に目覚めただけとも言える。

新しいエッチな自分に目覚めたとして、世の中に男なんか星の数ほどいる。いや男じゃなくても性欲を満たす方法なんかいくらでもあるんだから、別に特定の男に付き従うことには何の必然性もない。またたとえ特定の誰かに自分の全てを捧げたとしても、それは尊厳を持った自覚的な選択かもしれない。誇り高くビッチであること、あるいは誇り高く肉奴隷であることは、あたりまえに可能なはずだ。

こうした問題意識を読み取ることのできるエロコンテンツは実は決して少なくないが、本作をはじめとするTANAの対魔忍同人誌には特に顕著に現れている。調教ものの代名詞たる作品を元ネタに持ってくることで、よりテーマが鮮烈に浮かび上がっている。

「おまけ本」と思えぬ熱意

本作に収録された作品から具体的な例を挙げてみよう。特にわかりやすいのは、「奴隷娼婦凜子 寝獲り返し」だ。対魔忍の凜子は、娼婦として犯罪組織へ潜入する中で、リーアルという男の調教を受け性奴隷に堕ちる。彼女に淡い思いを抱いていた弟の達郎は、それを知り絶望する……ここまでが原作『対魔忍ユキカゼ』のお話。本作はその後、達郎が凜子をもう一度寝取るifストーリーである。この話だけ聞くと、ヒロインを男二人が奪い合う話と思われるかもしれない。その想像はちょっと違う。

立場逆転、こんどは寝取られる側になったリーアル。血の涙を流し悲しむ彼を見て、凜子は黒い快感を覚える。彼女は自分が何者だったのか初めて気づく。「私はリーアルに堕とされたんじゃない」「もともと…力づくで奪われて 裏切って 愛した男を絶望させるのが…好きだったんだ」そう、リーアルだろうが達郎だろうが、彼女はずっと自分の欲望を満たすために、調教者を利用してきただけだったのだ。

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むしろこの話で尊厳を投げ捨てているのは達郎の方かもしれない。彼は凜子を取り戻すために、自分に肉体改造術を施し、引き換えに精神の安定を失った。さらに、自分のチンコでは彼女を感じさせられないので、彼女を犯してきた男たちのチンコを移植している。それで彼女を取り戻したとして、それは本当に寝取り返したことになるのか?もはや彼はそんな疑問を持つことすらできない。凜子が彼を狂わせたのだ。

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物語の最後、再び凜子は奴隷娼婦として潜入任務につく。また彼女は別の男に墜とされるのだろう。そしてまた達郎が凜子を堕とす。甘美な連鎖へ歩み出す凜子の表情は喜びを湛えている。彼女は男たちに奪われ合う宝ではない。真の主導権は彼女にある。「寝取り」させる、「寝取られ」させる、男たちを操る主体は、あくまで凜子なのだ。

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驚くべきは、原作を大きく読み替えるこんな複雑な話を、会場限定の8P本でやっていることである。本書に収録された掌編は全部こんな感じなのだ。正直、情報量がキャパシティをオーバーしているものもある。だとしても、いやだからこそ、この熱意には圧倒させられる。対魔忍好きはもちろん、一味違う調教エロマンガが読みたい人はぜひ買って欲しい作品だ。

毎週金曜日更新のエロマンガ時評企画。今回は山田シグ魔『マゾメサイズ』を取り扱う。

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ヒロインを辱める熱意

この単行本は個人的にかなり楽しみにしていた。というのも、山田シグ魔が以前描いていたヴァンガードの二次創作同人誌シリーズ『ばいんど!!』が素晴らしかったからだ。ショタ主人公のアイチに、年上ヒロインミサキが、オモチャのように弄ばれる。特に、若い力に延々と責められ、ついには失神したミサキに、それでも死姦のように淡々とアイチが射精を続ける様子を、全く絵が動かないコマを並べて表現したページは、あまりにも惨めで本当に興奮させられた。

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今回の短編集でも、山田シグ魔は全くぶれていない。いや、これまで以上と言っていいかもしれない。とにかく、ヒロインを徹底的に辱めてやろう、という意欲に満ち満ちている。

その意欲はストーリー面にまず現れている。例えば「母親をディルドと再婚させてみた」のヒロインは、主人公である息子の催眠によって、極太ディルドを自分の夫だと勘違いさせられている。あるいは「地味デカJK初デート」のヒロインは、モテない自分へのコンプレックスをこじらせすぎて、初めてできた彼氏に吹き込まれた「恋愛の常識」を信じ、公園で全裸アクメを晒すのがデートだと思っている。どちらの短編でも、ヒロインはとてつもなく馬鹿馬鹿しい存在として設定されている。

とてつもない瞬間最大無様風速

しかし、こうした設定面の工夫を背景に追いやるほどに、一コマ一コマ単位での瞬間無様風速がド外れている。私はもう感動してしまった。一冊全部がすごいんだが、一冊全部を説明するわけにもいかないんで、特に印象的なシーンを紹介していきたい。

「絶頂!ずこばこ⭐︎スパーリング」のヒロインは超貧乳でありながら超長乳首、AAカップが乳首込みでEカップになる。竿役はコンプレックスをくすぐるため、乳首でちんこを擦らせる。おっぱいでは包めないが、長すぎる乳首でなら刺激できる、ということを意識させる「乳首ズリ」だ。

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続いて同じ話での射精シーン。見開きにもかかわらず、人物は右側のページにすっかり収まり、左側のページは空間とセリフだけが並ぶ。奇妙な構図だ。この構図は、コマの広さとそこに並ぶセリフの量が、絵に対して不当に多い、という意識を喚起させる。つまり、竿役が射精し絶頂したヒロインが喚くという、普通は瞬間であろう情景が、異常なまでの長さで続いていたことを表しているのだ。『ばいんど!!』の失神射精描写の延長にある表現だろう。

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「地味デカJK初デート」では、吹き出しを子宮に見立て、ちんこがそれを潰すという描写が登場する。図を見てもらえばわかるように、入り口から赤ちゃんの部屋までゆっくり挿入してもらえるというヒロインの思い込みを、竿役が圧倒的な挿入で粉砕したことを強調している。しまじが使っていた「チンコマ」の女性器(&吹き出し)版と言えよう。

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ここまでくるとほとんどギャグである。しかし、ギャグみたいなことをやらされているのが無様でエロい、というのがそもそもの話だったのだから、それで全く正しいのだ。どこを切っても超ハイテンションの一作、ぜひとも読んでみて欲しい。

毎週金曜日更新のエロマンガ時評、今回は荒井啓の新刊『群青群像』を扱う。ただ、今プライベートも執筆仕事もあまりにも忙しいもんで、ちょっと急いで書いている。文章の荒れとかはご勘弁ください。

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なぜエロマンガのカメラポジションは近いのか?

先日こんなツイートがバズっていた。




マンガにおいてカメラ位置を意識することの重要性を説いた内容だ。これを受けて、エロマンガ研究者の稀見理都さんが次のように発言していた。




私も同じ実感を持つ。ではなぜエロマンガでカメラ位置が近くなりがちかというと、少なくとも次の二つは原因としてあるのではないかと思う。

まず、エロマンガは基本的には密着した2人のセックスを描くことが多い。この場合、セックスしている2人を捉えた中距離のショット、および表情やフェチパーツを抜いたクローズアップだけで、場面描写には事足りる。むしろ無意味に遠景ショットを入れた方がわかりにくい。

そしてもう一つ、エロマンガのセックスは多くの場合読者がキャラクターと共に感情を高めていくことを狙って描かれている。クローズアップは、読者をキャラクターに感情移入させ、共感を喚起する効果を持つ。一方で遠景のショットは読者を場面に対して客観的な視点に置く効果を持つ。場合によっては、読者をセックスに対して冷めさせるような効果を発揮してしまうことになる。

もちろん、だからエロマンガは単調なんだとかそういう話ではない。エロマンガというジャンルにおいて、大抵のケースで効果を発揮するカメラポジションが、近目になるという話だ。


荒井啓の見せる遠景ショットの妙

しかしだからこそ、アクセントとしてうまく使われた遠景ショットは、特別な光を放つ。そして、そういうカメラポジションの置き方ができる作家は、他にない力を持つ。荒井啓もそんな作家のひとりだ。本単行本の冒頭に収録された「僕は彼女の名前も知らない」の中での、遠景ショットの使われ方を紹介したい。

本作のヒロインはとても貧乏であるため、通う学校で生徒相手に売春まがいのことをやっている。が、特に自分の境遇を嘆くでもなく、きっちり稼いでやろうじゃん!というスタンスであるである(そう見える)。無口で内気な主人公は、そんな彼女に押し切られて、セックスの見張り役をやっている。

本作のセックスでも基本になるカメラポジションは、表情のアップや、くんずほつれつを捉えた中距離のショットだ。

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が、このなかに時折、遠目のショットが混ぜられる (引用画像の一コマ目に映るメガネの男が主人公) 。

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この遠目のショットは何を表現しているのかといえば、もちろん主人公から見たヒロインの姿を表現しているのである。主人公はヒロインのセックスに対して、まったく傍観者の立場にある。目の前で美少女のセックスが繰り広げられているのに、いつも彼は何の感情ももたず、ぼーっとしている。いや、本当は彼も彼なりにいろんなことを考えていたことがこの後わかっていくのだが、そのひっくり返しこそが後半の面白さ・エロさの焦点なので、この時点では彼の目線は純粋な客観者であるかのように描かれなければならない。だからこその遠景ショットなのだ。

付言しておくと、カメラの距離のみならずアングルもまた、このショットを客観的なものとして差別化するために一役買っている。セックスの最中のコマでは、パースのあるダイナミックな構図だったり、ヒロインを下から撮ったりと、凝ったカメラワークで読者の気持ちを盛り立てている(ノスタルジックな鉛筆線を使いながら、難しいアングルを次々狂いなく描いていくギャップが激萌えである)。一方で遠景ショットは、横から漫然と、ただ人を撮りました、という画面だ。もちろんこれは、あえて色のないアングルを選んでいるはずだ。それによってショットの客観性を強調しているのである。

というわけで、エロマンガにおいても、いやエロマンガにおいてこそ、遠いカメラポジションは重要な意味を持つ。本作が面白いのも、荒井啓が非凡な作家なのも、そこに理由の一端がある

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