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山文京伝の『沙雪の里』は、数多い寝取られマンガの中でも、最悪の部類に入る。

もちろん、これは称賛である。寝取られマンガは、ホラー映画などと同じく、不快感を与えることで読者を楽しませるものだからだ。

ただ、『沙雪の里』の最悪さは、他の寝取られマンガとやや質が異なる。なんというか、妙に身に迫る、切実なのである。

わかりやすい例を挙げよう。ストーリー中盤、家族から心が離れつつあるヒロイン・雪子が、夫・秀夫のために夕食を準備する。彼女が出すのは豆腐と納豆である(図1)。


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図1:『沙雪の里』(2011)p.154。以下、特記しない場合は『沙雪の里』単行本より引用する。


例えばこれがカップラーメンや出来合いの弁当だったら? 雪子はもう秀夫を一顧だにしていない。特に寝取られものを読み慣れた読者にとっては、見知った「堕ちた妻」キャラクターに、雪子が落ち着いたことの記号として機能する。もちろん不快は不快だが、それは慣れ親しんだ、友人のような不快である。

だが豆腐と納豆はどうか。インスタント食品とは言えない。大豆が健康に良さそうだ。タンパク質豊富なのでお腹にたまる。さらに良く見れば、豆腐にはネギが刻んであるし、漬物らしき付け合わせも並んでいる。確かに夕食としてはやや質素だが、まだ「家庭の食卓」の体裁はある。このメニューの裏には、まだ「妻」としての役割に後ろ髪を引かれて間男に堕ち切れていない、あるいはすでに堕ちつつあるが「妻」の体裁にしがみつこうとする、雪子の逡巡が見えてこないだろうか。読者は雪子を「寝取られ」に備え付けられた、わかりやすい箱の中に捕らえられない。しかし、その決意のなさこそ、我々が日々他者や自分の中に見いだし、苛立たせられるものではないか?

山文が描くのはこの種の、決意のない人間のもたらす切実な不快だ。以下その内実を、『沙雪の里』のストーリーを追いつつ見ていくとしよう。

『沙雪の里』について


先に作品の基本情報をまとめておく。

『沙雪の里』は、山文京伝の第16単行本だ。2011年にコアマガジンから発刊され、2007〜2009年に雑誌連載された同名長編全十九話が収録されている。あらすじはこうだ。雪子と秀夫、息子の秀一、三人家族が、「牡種の里」(こんな名前の場所に越すなよという気はするが)に移住する。過疎の進むその村では、生殖能力のある女性・男性は家族・恋人に限らず誰とでもセックスし、子供は村の共有物となる風習があった。彼らは半強制的に村の制度に取り込まれ、家族の形は変化していく。

相貌に埋め尽くされた画面


冒頭(図2、図3)。若い男(後に秀夫とわかる)が仕事をしている。退屈な事務作業の中で、彼はふと妻を思う。が、ひとたびページをめくると、雪子と複数の男性の痴態が繰り広げられている。


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図2: p.5。目次や扉等を除き最初のページ。


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図3: pp.6-7。目次や扉等を除いた2〜3 ページ目。


この冒頭部には、山文作品の演出的特徴がもういくつか現れている。

まず、主観的な影。村の仕事が終わらないと愚痴る秀夫を村人が宥めるコマには、同じ場所を描くそれ以外のコマにない深い影が差している。村人はここで、雪子の苦境をぼやかす言葉遣いによって、英夫を騙す。村人にとって、読者にとって、あるいは後に状況を知った秀夫にとって、この状況は背徳的なものに映る。その相貌が、ここで影となって現れている。

その後の雪子のセックスシーンも暗い室内が舞台だ。村ぐるみで犯しているのだから、それほどビクビクする必要はないのに、照明はついていない。山文の調教作品ではほとんど常にセックスが暗い。セックス以外でも、例えばヒロインが堕ちていくシーンでは、キャラクターの顔によく影が差す。時には物理的な光を無視してもだ。状況への背徳感、罪悪感といった主観的な意味付けをダイレクトに表したものである。

次に極端なアップ。冒頭のセックスで、雪子の目への極端な接写が二コマ、フェラチオをする口への接写が一コマ登場する。山文京伝の作品では、ヒロインの顔、それも顔全体ではなく特定のパーツだけを映す超アップのコマが頻出する。2番目の目のコマのように横幅がページ全体に渡る場合も多い。一般にアップは、映された人物の主観的心情や視点に寄りそうよう読者を誘導する。顔の統一感を破壊する極端なフレーム取り、対象との距離のなさが、ヒロインが状況に感じる圧迫感、緊張感を伝える。

無論、以上挙げた二つの手法は山文の専売特許ではなく、マンガで(ないしアニメ・映画でも)一般的に使われる。しかし山文は、手法を多用する。加えて彼の絵柄は、キャラクターを常に抽象的・記号的に、「良き妻」や「チャラ男」といった役割や理想のイデアのように絵にする。また、敏感な箇所への刺激を丁寧に強調し男女の感触・快感を想像させることもあまりない(この二点については、例えば世徒ゆうきのような真逆の作家と比較してみるとわかりやすい(図4))。つまりページはほとんど常に、起きた事柄を客観的に伝えようとしない。またキャラクターの感覚を読者に身体的リアリティと共に伝えることもない。事柄に対する意味付け、主観的相貌を前面に出してくる。この点では、他に比較できる作家は少ない。


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図4: 世徒ゆうき『アラルガンド』(2014)p.84。

二重の起承転結


冒頭のつかみが終わると時間が巻き戻り、家族が牡種に着いて最初の夜が描かれる。彼らが宴会で飲まされた酒には実は催淫作用があり、前後不覚になった雪子は違和感を感じつつ村長に犯され、感じてしまう。

山文作品のもう一つ共通点として、ヒロインが第三者とセックスし、セックスに溺れてしまう段階が意外と早く訪れる。山文作品は長編が多い分体感的にはなおさら早い(『沙雪の里』は単巻で330ページほどあり、もし片手で読もうとすればやや重すぎるほどだ)。寝取られ・調教ものでは一般に、ヒロインが「堕ちて」いく過程を可能な限りじっくり描くのが良しとされる。すぐに感じたり間男になびくヒロインは「即堕ち」と揶揄されがちだ。

では山文作品は「即堕ち」なのか。それは各人の定義によるだろうが、少なくともヒロインが冒頭で淫乱になって以後そのまま終わるわけではない。

雪子は次の日意識を取り戻す。彼女は昨晩のセックスが夫相手だったのか不安に思うが、再び男に囲まれ犯され、抵抗虚しく感じてしまう(第3話〜第5話)。さらに後日露出プレイに駆り出される。やはり恥ずかしがる素振りを見せるものの、最後には「雪子イキますっ‼」と宣言するまでになる(第6話)。

この後も、雪子は抵抗→諦め→感じるループを一〜三話の短いスパンで繰り返しつつ、過激なプレイに歩を進める。山文作品はしばしば、「最初は抵抗していたヒロインが堕ちてしまう」という、典型的調教作の展開を、短いスパンで繰り返す。その中で、ヒロインはだんだん間男に傾斜していく。大きな起承転結の中に小さい起承転結が大量に含まれるイメージである。

この組み立てのおかげで、堕ちる過程を楽しみながらも、読者は物語を退屈せず読み切れる。寝取られゲームなどで、純愛パートやヒロインが堕ちていく過程を丁寧に描く場合、ともするとフリだけが長くなり、読者に一定の忍耐を強いるかもしれない。山文の方法論は、ミクロに「オチ(堕ち)」を用意し適度な間隔で刺激を提供しながら、マクロにはヒロインが少しずつ変化する様子を描く。同時に、商業エロマンガ特有の、毎回エロシーンを入れねばならない要請にも応えている(むしろ、この要請に山文が適応した結果ではないかとも想像する)。

ちなみに山文の商業初期作には、短いページながらも、導入・伏線・オチをきっちり用意した読み応えある作品が多い。強固な構造的面白さを持つ短編を描き続けた経験が山文に物語をまとめるリズム感を養ったのだろう。

価値観と絆の破壊


本節まで、『沙雪の里』序盤から、山文作品の基本的な特徴をいくつか確認してきた(もちろん、これが山文の作家性であることを証明したと言うには、20年を超える山文のキャリアは長すぎる)。それらは、山文が重要視する主題の観点からまとめられる。

山文はしばしば、自身の興味はセックスに伴う肉体的快感よりも、人間の価値観の変化にあると語っている(例えば『漫画ホットミルク』2000年1月号のインタビュー記事など)。せっかくだから、『沙雪の里』単行本あとがきから引用しておこう。

自分は「人の心が変わる様」に強く惹かれる傾向がありますっ
それも「心が通じていない様な相手によって」「不本意に」…
大切に思い心を通わせていた相手と育む価値観がまったくの他人の介在によって変わっていってしまう
そんな人間の不可侵領域への冒涜のような事象に…

例えば山文の『蒼月の季節』(2008)でヒロインの理沙は最初、菓子職人である夫の夢を支える人生を送っている。が、「献身的な妻」を降りて、大富豪・豪舟への服従に無上の喜びを見いだすようになる。『沙雪の里』の場合、変化は人間観自体にまで及ぶ。雪子は、秀夫や秀一を交換不能な個として愛することをやめ、女も男も子も村の存続のための機構の一部だと受け入れる。エロマンガによく見られる「性に関する独自の習慣をもつ閉鎖社会」の設定は、ここでは単に便利なセックスへの導入に止まらず、ヒロインに注入される新たな価値観を提供する。こうした、価値観の破壊・再構築の過程が、山文京伝の考える寝取られもののエロさの肝にある。

であってみれば、客観的現象でも身体的な感覚でもなく、物事の価値や意義といった水準を前に出すのは自然だ。また、弊サークル同人誌のインタビューでも語られるように、たとえ快楽の高まりに一時的に心を攫われても、人生を賭けて追求される価値観は簡単に変わらない。だからこそ、一時の快楽や心理に起因する小さな起承転結と、価値観自体がじわりじわりと変化していく大きな起承転結の二軸で人間の変化が描かれていく(あるいは、二軸の構成を作る余地ができる)。画面や物語を構成する山文の手つきは、「価値観の破壊」を表現するためのものと考えられる。

そして、彼の語りの中では人間は次のように描かれることになる。人が価値観を一気に極端に変えることはない。一方で、短期的な心の移ろいに晒され続ける。ある価値観にコミットし切れず、あちらへこちらへ逡巡する。これが山文作品における「変わる人間」の基本的なあり方である。すると、「納豆と豆腐」はまさしくその象徴だったことがわかるだろう。

私が山文作品の最悪の部分だと思うのは、こういうリアルで、決意のない、故に分類し難い人のあり方を見せつけられる瞬間だ。『山姫の実 美空』(同人誌、2017)で、兄・陸を弟の迎えに行かせようと、母・美空が電話をかける。間男との時間を作るための工作だ。訝る陸を美空は、「夕ごはん陸の好きな生姜焼きにするから…っ」と、いかにも母親らしく宥め賺す。あるいは『沙雪の里』の後半、すでに家族とのコミュニケーションに身が入っていない雪子が、村の男達の下へ向かう場面。彼女は思い出した様に息子を抱き、「愛してるのよ秀一…っ/許してね…」と絞り出す。堕ちつつある雪子の中に残る息子への愛かもしれない。だが、自分への言い訳として愛を口にしているようにも見えないか? どちらにせよ精神的にきつい状況である上に、判定が難しいことがさらに不快なのだ。

調教師としての「社会」


『沙雪の里』ならではの特性にも目を向けてみよう。まず指摘できるのは、『沙雪の里』が「社会」を調教役として取り上げたことだ。

山文作品では普通、調教役は特定多数に絞れる。輪姦のために人を集めてくるなど、手数として不特定多数が集まることはあるが、中心的な役割を果たす悪役は二人くらいになってくる。極端な場合では、『緋色の刻』(同人誌、1993〜1996)に出てくる不能の調教者、『Sein』(1999)『READINESS』(2008)に登場する女調教師・劉(図5)など、ヒロイックな雰囲気を纏うスーパー調教師が1人で大きな役割を果たす。一方で、『沙雪の里』には、特に目立つ力や意志を持つ堕とし役は表向き登場しない。村の風習に従う不特定多数の人々、牡種の村という共同体自体が、雪子達に迫る。


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図5: 山文京伝『Sein』(1999)p.15。


新しい調教者である「社会」は、単に設定上の題目としてではなく、いくつかのシーンでその具体的な形を印象的に示す。例えば第4話で、公民館で輪姦されていた雪子は隙をついて外へ裸で逃げ出すが、男に取り押さえられる。「どこまで逃げても助けなんか居やしねえよぉ」「ここは全部オレたちの家みてぇなもんサ」「道路も畑も/家も施設もなんもかんも……/全部わしらの持ち物だ/逃げ場なんてどこにもないのさ」事実この後露出調教を受ける雪子を目の前にしても、村の人は「精が出るのぉ」などと声をかける始末だ。逃げられないのではなく、逃げる外部自体がない恐怖と絶望が深まる。

一方で村の女達は雪子を訪ね、「女は体力勝負よ」「精のつく物持ってきたからこれ食べなさいっ♫」と言って食べ物の詰まったダンボールを雪子に渡す(第8話)。井戸端会議の気軽さで、雪子のセックスを話題にする。みんなも自分もやっている、ゆえの悪気のなさに、抵抗が剥がされていく。

寝取られ群像劇


ただ、雪子が秀夫や秀一から村に寝取られる単純な図式は、ストーリーが進むにつれ崩される。

まず、やんちゃで直情的な少年・猛が、雪子に強い執着を示し、第7話から調教に参加する(図6)。年若い調教役は山文の過去作『砂の鎖』(2001、2005)にも登場するが、同作の庸一(図7)が年齢に見合わぬ狡猾さを見せるのに対し、猛は感情も知性も未熟だ。だがその純粋な熱意に絆され、雪子は彼を「村の一男性」以上の愛しい存在と認めるようになる。


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図6: p.102。左が剛、右が猛。

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図7: 山文京伝『砂の鎖 2』(2005)p.23。


第10話のセックスシーンで、雪子は二人の男の男性器をおそるおそる舌で刺激する。だが彼らと並んだ猛を目の前にし、猛の子供を身籠もる想像をした時、雪子は躊躇なく猛のペニスを咥えこむ(図8、図9)。セリフではなくアクションによって、芽生えつつある猛への特別な感情を表現するシーンだ。とはいえ後に彼女は秀一の前で、「雪子は息子の秀一を捨て猛さんだけの女になりましたぁ!」と、言葉でも宣言することになる(第14話)。


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図8: p.170。

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図9: p.171。


一方で、同じ第10話、先に村に住んでおり一家へ移住を勧めた秀夫の姉、夏海が弟を誘惑する。村の男が「夏海は以前から言っていたんだよ……/愛する弟ともしてみたいとねぇ」と煽る。秀夫は背徳の誘惑に負け、夏海と通じる。

さらに、村の風習に疑問を持つ少女・ユリも登場する。彼女は秀一に淡い恋心を抱く。だが後述するバッドエンドでは、彼女もまた、秀一のクラスメイトである剛と関係を結び、秀一の前で自分は「剛の女」だと言い放つ(年齢の違うダブルヒロインも『砂の鎖』に通じる要素だ)。

以上のように、後半以降『沙雪の里』は、多数の登場人物の間を人間関係の矢印が行き来し複雑な図形を描く、群像劇の様相を呈する。その結果、間男・寝取られ役・ヒロインの三者からなる寝取られ関係が、相関図のそこかしこに出現する。まず秀夫と雪子の二人は夫婦関係を捨て乱交風習に参加し、村というコミュニティの夫・妻となる。秀夫が雪子を村に寝取られるのみならず、雪子が秀夫を村に寝取られてもいる。また、秀夫は夏海に、雪子は猛に個人対個人の特別な感情を抱いているはずだ。秀夫が雪子を猛に、雪子が秀夫を夏海に寝取られる。さらに息子の秀一も寝取られ側であり、彼は猛と村に雪子を、夏海と村に秀夫を寝取られる。そしてバッドエンドでは、秀一がユリを剛と村に寝取られる。

さらに興味深いことに、村自体、あるいは猛も、ある関係においては寝取られ側に回ってくる。例えば雪子が秀夫に「堕ちました」宣言をする12話の場面(図10)。村長に「雪子もしっかり告白しないとなァ/操を立てる相手が誰なのか…」と促された雪子は、「村の男の人たちの…っ/全員の所有物に…なった…/のおォ!」と答える。が、その視線を表現する前のコマには、(村長は入らず)猛だけが捉えられている。つまり雪子は、村の男全員の女であると答えながら、その実ただ猛だけを思い浮かべている。村が雪子を猛に寝取られる、と見立てができそうだ。一方第15話では、個人プレイの度が過ぎた猛が村から制裁を受ける。猛は縛られ、目の前で他の村人に雪子が蕩かされる様を見せつけられる。今度は、猛が村に雪子を寝取られるのだ。


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図10: p.204。


このように乱舞する寝取られ関係が、一冊で数作品分の寝取られものを読んだような満足感を生む。『沙雪の里』は、寝取られ福袋とでも言うべきお得なマンガなのだ。

卑小な悪


村のシステムと共に、夏海と猛ら個人を寝取り役に立てたことで、『沙雪の里』は「悪しき社会」のみならず、「悪しき社会」に隠れた「悪しき個人」に光をあてる。

最終盤、第16話冒頭にて時間は未来に飛ぶ。雪子は村の男との間に三人の男児をもうけ(第1児はもちろん猛の子である)、4人目を身ごもっている。彼女は成長した秀一を見かけ、「…おひさしぶり…」と声をかける。この他人行儀な言葉も読者の心をえぐる。「秀一を捨てる」宣言にかろうじて残っていた、秀一は特別な存在であるという前提すらそこにはない。

雪子が完全に村の一員になってしまったと印象付ける名シーンだが、ここまで彼女が堕ちる過程では明らかに、猛の彼女への執着が大きく関与している。第17話で彼女は、子供の父親を順番に回していく掟を破り、猛の求めに応じて再度彼の子を孕むことすら想像している。雪子は彼の愛情に応じ、彼に傾くことで、彼を含む村に(部分的に背きながら)傾いた。

またそもそも雪子達一家を、牡種の村に呼び寄せたのは夏海である。ところで夏海は、以前から近親相姦願望を持っていたのだった。ならば、夏海は秀夫とセックスするために彼ら一家を村に呼び込んだ、と推理ができないか?

このように、猛と夏海が果たした役割に注目すると、物語の構図は違って見えてくる。一見、淡々と駆動する社会のシステムを描いているように見えた『沙雪の里』は、実は二人の極めて個人的な悪意に家族が絡め取られていく話でもあるのだ。

ただし、猛や夏海は、『緋色の刻』の調教者や『Sein』『READINESS』の劉とは決定的に違う。例えば劉は、卓越した調教テクニックを持ち、いかなる調教が優れているのか、確かな基準をもって自らを統御する。人身売買集団に参加しながら、時に躊躇なく裏切る。仕事にプライドを持ち、時には敵に顔を晒しつつ存在を誇示する(図11)。一方で猛や夏海にはいかなる卓越性もなく、またセックスに対するこだわりもない。自分が属する村社会の包囲を借りて、ただ自分の欲望を満たすだけだ。属する組織と敵対すれば、時には寝取られる側の立場に立たされる。あくまで自らは村の一員であり、村の繁栄のために歯車として行動している体は保つ。自らの責任において、自分の行動として悪事を働こうとしない。「無人称的なシステム」の隠れ蓑に隠れてしか動けない、卑しい悪だ。


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図11: 山文京伝『Sein』(1999)p.186。


『沙雪の里』は、こうした卑しい悪によって、大切なものが奪われる様を描く。弱い相手にひどい目にあわされる自分はなんと弱いのか。マゾヒスティックな感興が湧く。

「沙雪の里」はすぐそばに


『沙雪の里』には最終回が二つある。

マルチエンディング自体は、初期短編「かげり」(『おねーさんとあそぼうっ!』(1997)所収)や『砂の鎖』でも導入されている。ただ「かげり」については、別エンディングを単行本で書き起こしたものであり、『砂の鎖』は、単行本作業時の加筆修正の結果だ。雑誌掲載段階で二つのエンディングが掲載されたのは『沙雪の里』が初めてである。グッド・バッドと並列される二つのエンディングが、互いの明暗を強調している。

グッドエンディングでは、秀夫と雪子は村で生活を続けるが、ユリと秀一を秘密裏に外へ逃す。人間の価値観はそう極端に変わらない。だから明るい終わり方をする山文作品では、ヒロインが淫乱な自分を受け入れた上で、かつての理想も形を変えて残る、というオチが多い。『READINESS』で、定期的に発情する体をコントロールしながら犯罪者との戦いに戻る女刑事水雲。『砂の鎖』単行本版で、セックスに溺れる自分も本当の自分だと受け入れながら、調教役の少年・庸一との擬似的な近親相姦を拒否し、彼の心を救う由起江。譲れない信念をしっかり握りながらも、雁字搦めの「道徳的」拘束から逃れたヒロイン達には、ある種の開放感がある。

一方バッドエンディングでは、雪子は傷心の秀一を癒すため、身重のまま身体の関係を結ぶ。母を選んだ秀一に絶望したユリは剛に手篭めにされ、当てつけもあって秀一を遠ざける。二人は結局村の風習に取り込まれる。雪子は出産を迎え、産まれた女の子は沙雪と名付けられる。いくら体を重ねても雪子の心を猛から離せない秀一が、沙雪をいずれ毒牙にかけることを暗示し、物語は終わる(図12)。


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図12: p.330。


秀一もまた、雪子や秀夫やユリと同じく、村の価値観を受け入れる。猛や夏海のように、牡種の風習の背後で、猛や雪子への個人的な愛憎を沙雪にぶつける卑小な悪に成り下がるのだ。こうした、被虐・加虐の連鎖は、先行する『砂の鎖』や同時期の同人誌『山姫の花 美和子』(同人誌、2008)でも描かれているのだが、この二作では連鎖の連結点にいる人物はあくまで調教役で、動機として過去が客観的に示唆されるにとどまる。一方、『沙雪の里』では秀一は主人公に限りなく近く、終盤、多くの場面でモノローグの主体となっている。自らが嫌っていた加虐側になる、それも極めてつまらない種類の加虐者へ追い込まれる秀一。読者は彼の視点から、「加虐者にさせられる」惨めさ、被虐性を楽しめる。

そしてこのラストは、被虐・加虐の連鎖と卑小な悪の活躍が、牡種の村の乱交システムを維持してきたのであろうと推察させる。ユリや秀一のようにこの村に疑問を持った者達も、システムを利用する側に立ち鬱憤を晴らそうとする。システムの隠れ蓑で、時に部分的にシステムを逸脱しながらも、個人的な感情を他者にぶつける。ゆえにこそシステムは安定し強化される。こんなプロセスがずっと繰り返されてきたのが、牡種の村、「沙雪の里」なのだ。

たぶん、我々が所属する共同体でも、この種の地獄はごく普通に繰り広げられている。例えば会社や部活でのハラスメント的な制度や慣例。あるいは、司法や行政のシステムが人を苦しめる時。あるいは種々の差別的習慣。多かれ少なかれ深部に、俺が苦しんだんだからお前も苦しめ、お前への憎しみをこの機会にぶつけてやる、そんな個人的な感情が渦巻いていないか。「沙雪の里」はそこら中に転がっている。本作は、決意と責任を欠いた「個人」との相互作用によって、いかに悪しき「社会」が運営されるのかを暴いて見せた。そしてその目を背けたくなる洞察こそが、本作を最悪にして最高の寝取られマンガにしているのである。


この記事は、弊サークルの同人誌『〈エロマンガの読み方〉がわかる本2 特集:NTR』より、新野安の記事「なぜ『沙雪の里』は最悪のマンガなのか」を無料公開したものです。こちらの同人誌は現在BOOTHDLsiteFANZAにて電子版を頒布中です。

◆注

カッコ内は単行本の発売年ないし同人誌の発表年。画像は原則同人誌版から流用しているため、コミケのレギュレーションに合わせて再修正を行なっている。

「セックス制度」にまつわるエロマンガ作品を、理不尽なシステムの中に生きる個人の美徳・悪徳という観点から読み解く上では、墓場『公開便所』(2012)のへどばんによるレビューに多くを教えられた。へどばん「墓場『公開便所』」(2012)http://alwaysthrashed.blog.jp/archives/12085330.html 2019/7/1閲覧。