新野安と夜話のブログ

新野安がマンガやエロマンガについて文章を書いたりするブログ。Webラジオ「エロマンガ夜話」「OVA夜話」の過去ログ紹介も。

2018年11月

※これは2018/11/25に行われたイベント「第二十七回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、ひかけんが書いた記事のみを転載したものです。ペーパーのPDF版はこちら。

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今月号(二〇一八年十一月刊)から、エロマンガ雑誌『コミックアンリアル』の表紙絵師が変わった。アンリアルといえば、モグダンの描く乳首の透けた爆乳人外女性の表紙絵を連想する人も多いと思う。創刊から
12年間、75冊の表紙絵を一貫して担当していたモグダンだが、前号のあとがきにて「今回でアンリアルの表紙は最後です」ときっぱり書いているので世代交代ということだろう(ありがとうございました) 。

さて今号の表紙は佐藤空気が担当した(図) 。それこそ村田蓮爾以降の「快楽天」方式で、 表紙絵は持ち回りになるかもしれないが、今号は佐藤空気の連載「愛聖天使ラブメアリー」の最終回掲載ということもあって、ヒロインの朝比奈あかり(サキュメアリップ)が表紙担当になっている。

「愛聖天使ラブメアリー」は、二〇一七年七月刊から全九話で連載された、コミックアンリアルにほぼ毎号載っている「魔法少女に変身して戦うも、魔物に捕らわれてエロいことをされる」タイプの物語だ。ただ、このマンガには戦闘シーンがほぼない。全部で三人の魔法少女が登場するが、いきなりラスボスの堕邪神エルゼアムと対峙するため、みんな敵を倒すどころか攻撃モーションすら見せないままに拘束され、 ラスボスに調教され記憶を消され、 のローテーションの中で堕とされていくのがお決まりのパターンになっている。メインヒロインの朝比奈あかりはとても強い魔力を授かったのだが場馴れしておらず、封印されていたラスボスの完全復活のためにその魔力を利用され、途中悪堕ちして他の二人の洗脳調教に加担するようになる。

「ラブメアリー」について何を特に語りたいかというと、ヒロインの一人・真尋ゆづきが男の子であるということ。そして、悪堕ちして女の子になるという展開についてだ。

ゆづきもお決まりの展開で敵方にとらわれて、まず男性としての機能を利用される。魔力を持ったゆづきの精液にエルゼアムが瘴気を吹き込み、それをあかりの体内で射精させることで、防御力の高いあかりを悪堕ちさせようというのだ。ここであかりが強烈な快楽の果てに悪堕ちするのに対し、ゆづきは快楽に翻弄されるものの悪堕ちには至らない。役目を果たしたゆづきへ何故か触手アナル責めが始まるところで第五話が終わる。

第六話でゆづきはラスト、引きの一コマまで登場しない。一話分登場しない間も調教を受け続けているというこの設定が、連作というフォーマットを上手く生かしている。第七話は一話まるまる
20ページをかけてじわじわとゆづきを女体化するという趣向になっていて、男性器が縮み、乳房が形成され、髪が伸び……といった描写がじっくりと描かれる。それでも正気を保ち続けたゆづきに、悪堕ちしたあかりは自らの受けてきた快楽をゆづきに追体験させ、堰が切れたかのようにゆづきが自ら「女の子にしてくださいぃっ」と叫ぶと、全身を瘴気につつまれたゆづきが妖艶な美少女になって表れる。

マンガに限らず男性向けエロコンテンツにおいて、 「そもそも肉体的なレベルで、女性が感じる快楽は男性より(遥かに)強い」という物語上の信仰が現れることがある(それを読者や作者が現実に信じているかはともかく) 。例えばレイプモノで「感じてしまう」といった描写はフィクションに過ぎないのだが、読んでいる間だけそれを真に受ける雑なエクスキューズとして、この信仰が機能することがあるだろう。アンリアルが得意とする女体化モノの作品もこの前提が重要で、男性読者から見て得ることのできない快楽への希求がエロさの推進力となっている部分はある。

「そうか、責められ続けた末にひとは女の子になってしまうのか」(ファンタジーです)……という感慨があったのは、ラストでゆづきもエルゼアムの子を産む存在になる、という物語上の要請ももちろんある一方で、あかりの快楽を追体験することが堕ちのトリガーになるという描写に 「女性の快楽への信仰」 の強さを感じたからだ。第八話後編(最終話)であまり「元男性」という設定が生かされず、なぜか単純に男性器が再び生えてきたりしていたのが少し残念だったのだが、第七話の丁寧な堕ち過程は全編を見ても見応えのある描写だったので、来年発売の単行本ではぜひ注目していただきたい。

ここまでまったく触れていない三人目のヒロイン・真尋ゆり(ゆづきの妹)が終盤で悪堕ちするスピード感は潔いほどなので(台詞回しもギャグにふっている感がある) 、最後は単純にページ数が詰まってしまったのかもしれない。それだけゆづきの堕ち描写に力を割いていただいたということで、女体化モノウォッチャーとしてはありがたい限りでした。
  

※これは2018/11/25に行われたイベント「第二十七回文学フリマ東京」にて、サークル「夜話.zip」で無料配布したペーパーの中から、新野安が書いた記事のみを転載したものです。ペーパーのPDF版はこちら。

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『ガラスの仮面』文庫版 10 巻 p.310

美内すずえは執筆の際、集中力を高めてまず中心的イメージを閃き、そこから逆算してプロットを組み立てていくのだという( 『ガラスの仮面展』公式ビジュアルブック、美内すずえロングインタビュー) 。 『ガラスの仮面』における数々の名シーンは、 「キメ」を重視する彼女の姿勢から生まれたものだ。中でも特に印象的な場面が、「泥まんじゅう」 (図)である。

『ガラスの仮面』の奇矯なまでの面白さを考え直すにあたり、まず「泥まんじゅう」がなぜこれほど深い感動を誘うのか、探ることから始めたい。

理由の一つに、マヤが失くした自分を取り戻す、ストーリー上のクライマックスとしての位置づけがある。 「華やかな迷路」と題された章で、主人公の北島マヤはついに本格的に芸能界に参入する。慣れ親しんだ舞台と異なるテレビや映画の現場に疲弊するマヤ。付き人・乙部のりえが仕掛けたスキャンダルがトドメとなり、ついには演技の仕方を忘れてしまう。これを最後に演劇を止めると決めた舞台ですら共演者のいじめに遭い、舞台上で食べるはずだったまんじゅうは泥にすり替えられていた。しかし土壇場で目覚めた本能が命ずるまま、かつてのライバル・亜弓の目の前で、マヤは美味そうに泥まんじゅうを口にする……

例えば『あしたのジョー』で、力石を殺したショックから落ちぶれたジョーが、新たな好敵手・カーロスと戦うため、草拳闘のリングを後にする場面。あるいは 『みどりのマキバオー』 で、 師匠のチュウ兵衛を亡くし走れなくなったマキバオーが、再びレースへの情熱を取り戻す場面。スポ根マンガ史に残る名シーンと同様、 「泥まんじゅう」は強烈なショックで自分自身を見失った主人公が、自らの真のあり方を思い出すシーンである。応援していた主人公がどんどんダメになり、フラストレーションが溜まった果てに待つ、逆転のカタルシス。特に『ガラスの仮面』では、思いついた「キメ」を生かすため、美内が単行本5巻もの時間をかけマヤを「極限まで突き落とし」 (同インタビュー)た果ての上昇だから、その角度は強烈であり、読者をえぐる。

さらに、上記の物語が、様々な象徴を通じて一つのシーンに圧縮されていることも重要である。 「おらあトキだ!」というセリフは、かつてマヤが亜弓の才能に慄きながら『おんな河』に出演した際のセリフ「おらァたずだ…!」の反響に聞こえる。まんじゅうを食う動作は、その後亜弓と対等に渡り合った舞台『奇跡の人』で、彼女への対抗心を燃やしながら大福やたい焼きを食べる様子をトレースして見える。 上り調子だった頃のマヤが読者の記憶から蘇ってくる。無論、 演劇に戻ることが、 マヤにとって幸せかどうかは分からない。既にイメージは回復不能なほど低下しているし、似たような逆境がまた先に待っているだろう。しかし苦難を彼女は進んで選択する、ちょうど泥まんじゅうを喜んで食べるのと同じように。

こう考えると、 「泥まんじゅう」は、マヤが自己を再獲得するシーンだと理解できそうだ。だが実は、それでは片手落ちである。 「泥まんじゅう」は、徹底的な自己否定の表れでもある。 「おらあトキだ!」のセリフにもう一度注目してほしい。マヤは泥まんじゅうを口にするとき、私はマヤではなくトキなのだ、と自己暗示をかけている。マヤはマヤとしては泥まんじゅうを食えない。ここで泥まんじゅうを食っているのはマヤではなく、トキなのである。

『ガラスの仮面』について、裕福で幸せな家族に囲まれ、知性と美貌を備えた亜弓と、貧しく厳しい家庭に生まれ、日常生活では取り柄のないマヤという対比が、作品内外でしばしば語られる。マヤの恵まれなさは、 マヤが演劇に向かう動機になっている。といっても、『巨人の星』のように、単に反動として地位向上を目指すわけではない。 『若草物語』でビビに抜擢された彼女は、 「あたし自身はなんのとりえもないつまんない女の子だけど/演技しているときだけはちがう…/そのときだけはお姫さまにだってなれるかもしれないのよ…」と喜ぶ。マヤが演劇への情熱を燃やすシーンでは、しばしば激しい自己嫌悪と共に、同じロジックが現れる。芝居していれば、取るに足らないマヤは消え失せ、自分は価値ある何かになれる。だが、舞台の上でも別人になれるわけではない。別人を
演じるだけだ。 「舞台あらし」編で、マヤの演じた役に心奪われる共演者・真島が登場するが、彼の恋が虚しいなら、自己を追放した空虚を虚構で補填するマヤもまったく同様に虚しい。本作では演劇が虹に喩えられるが、千変万化の演技を七色になぞらえるとともに、マヤの生きる世界の不確かさも強調されている。

つまりマヤが役者として自己を確立していく過程は、マヤが幻を取り自己を否定する過程でもある。この悲劇性こそが、 『ガラスの仮面』の根本的なポイントである、 と断言してしまおう。もちろん、自己実現が自己否定に行き着く、 と抽象化すれば、 『あしたのジョー』と 『巨人の星』 の構造である。 梶原一騎的スポ根に演劇が接ぎ木され、虚構と現実の二項対立が導入されたことで、伝統的なテーマがより徹底化されたものと解釈できるだろう。マヤの「おらあトキだ!」という叫びは、 『ガラスの仮面』全体を貫く彼女の宿命的矛盾の結晶化である。ゆえにこそ読者の心を揺さぶるのだ。
  

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