毎週金曜日更新のエロマンガ時評企画。今回はせうま『月と莫』を扱う。音楽に希望を持つ処女たちが陵辱される連作短編、「陵辱音楽処女」を収録した単行本である。
斬新な「処女膜責め」
現代エロマンガの歴史は、性感帯の拡張の歴史である。特に女性器については、性感帯は表面から奥へ奥へと広がってきた。クリトリス、Gスポットときて、子宮口、子宮、果ては卵巣や卵子、卵子の核へ。性感どころかそもそも感覚があるのか疑わしい、しかしだからこそ実はとんでもない感覚が眠ってるんじゃないか。現実の軛を逃れ、無限の快楽を目指して、エロマンガは進化してきた。
が、卵子の核や卵巣まで来たらもうその先は物理的に存在しない。エロマンガにもうフロンティアは残されていないのか?
いやそんなことはない。発想を逆転させろ。せうまは「さらに奥」ではなく「さらに手前」に新たな開発を待つ大地を発見した。それこそが月と莫=処女膜だ。なにせ本作では、処女膜が精液の味を覚えちゃうのである。
非現実的な処女膜責めということで言えば、例えばファンタジー設定で一度破った処女膜が再生され、もう一度竿役に破られるというようなものは既に存在する。が、基本的には処女膜というのは破るものだ。性感帯として処女膜を責めるマンガは、私が今思い出せる限りでは存在しない。まして単行本として押し出され、本作ほどの説得力を持った処女膜責めは歴史上絶無ではないか。
エロマンガを読む大きな楽しみは、「こんなエロがあったのか!」という驚きにある。だから本作は、これまでなかなか見られなかった責めを提示しているというその一点をもって、歴史に残る傑作だと言い切っていい。
処女厨と処女膜厨
さて、では処女膜責めが偉大だとして、なぜ処女膜にこだわるのか。それはいわゆる処女厨的な、処女性への思い入れなのか。ことはそれほど単純ではない。
一般的に言う処女厨とは、セックスの「罪」と無縁な女性、婚前交渉を嫌う貞淑な女性、といった精神的イメージに対するこだわりのことだ。だが、本作の処女膜への態度は、もっと医学的・肉体的である。たとえば短編と短編の間の解説ページでは、ヒロインの処女膜形状が図とともに解説される。ヒロインの名前がゆうきなのでYと読める剪裁状処女膜にしたみたいな、正直やや気持ち悪いディテールも、気持ち悪いからこそめちゃエロいと思う。
ヒロインの肉体も「処女的」とは言えない。せうま自身「発育のいい処女」が好きだと書いているが、本作のヒロインたちはムチムチであり、なんなら熟女的なだらしなさすら感じさせる。
本作に一般的な意味での処女厨性があるとすれば、竿役よりもヒロインの側にある。例えば「新人声優愛澄の裏ステ!」のヒロイン・愛澄は、先輩声優・絵里香に、とあるイベント会場に連れて行かれる。そこはかつて愛澄が絵里香のライブに感動し、声優を志した場所だった。思い出のステージの上で、愛澄は絵里香からプロデューサーへの性接待を告白され、あまつさえ愛澄も加わるようにと諭され、絶望する。
絵里香のセリフのうち、「私」に「非処女」とルビが振ってあるのが重要だ。このセリフによって愛澄の夢が壊されたのだとすれば、彼女の憧れる声優とは「処女」に他ならない(せうま自身、女性声優のライブを見たことで、処女厨としての性癖が深まったと書いている)。つまり愛澄こそ、処女厨的な幻想に囚われており、プロデューサーや絵里香はそれを破壊する側なのである。
本作における処女厨の現れ方は次のように整理できるだろう。ヒロインの持つ処女厨的な無謬性の理想を、竿役が徹底的に弄び破壊することで、サドマゾのエロさを生む、というのがお話の基本構造である。ヒロインが「厨」であり、その理想が幻想にすぎないことを強調するために、処女性とかけ離れたムチムチの肉体が与えられる。処女の潔白さを証拠立てるはずの処女膜を性感帯として責め、不合理なほど肉体として弄ぶことも、処女精神を馬鹿にし貶めるためだ。
そういうわけで、本作の見せる「処女膜厨」ぶりは、「処女厨」とイコールではない。むしろ「処女厨」の幻想を陵辱し尽くすことこそが「処女膜厨」なのだ。